【No.52】 重荷を軽くされる主
2002.12.29 礼拝メッセージ マタイ 11:28〜30  園 謙慈師
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生きている限り、労苦があり、疲れ果てる。しかもなお、重荷を負わせられている人間。
「私が休ませてあげよう」と言われるイエスの言葉の意味を学んで真の休息を得よう。

@ 人間の重荷とは何なのか?
「重荷を負うて苦労している者」とは、「心の中に様々な負担を感じている者」。
1.信仰生活の重荷:
  律法学者やパリサイ人らは、神の律法に自分たちの規則を付け加え、当時のユダヤ人に重い荷物(律法)をくくりつけ、負わせていた。人々は強いられ、義務として律法を守ろうとしていたのである。
2.罪の重荷:
  赦しを得ていないという心の中の隠れた罪の重荷(罪責感)。
3.人生の重荷:
  誰の人生においても様々な労苦・疲れ・思い煩いという人生の重荷がある。

A イエスの言う休息とは何なのか?
人間はなにかしら、しばしの気休めを求めるものであろう。カウンセリング、趣味、酒など、気分転換さえできればよいと思う。忙しさにあえぎ、休息を求めているが、 真の休息が分からないわたしたちである。キリスト者といえども、教会外に気晴らしを求めるクリスチャンもまた、真の休息を得られていないのである。
イエスの与える休みとは、根本的な魂の休息のことである。「休ませてあげよう」とは、「新しい、新鮮な命を与える」こと。

B魂の休息を得るためにはどうしたらいいの?
1.「私の元に来なさい」
  わたしたちは、「自分で」なんとかやろうとする傾向がある。しかし、生活の余分な重荷を自分だけで背負い込もうとせず、イエスの元に行き、委ねることが大事なのである。あなたは自分でできるかも知れない。やり通すかもしれない。でもその後はどうするのか。
2.「私のくびきを負いなさい」
  「私のくびきは負いやすく、荷は軽い」。イエスが共に人生の重荷を負ってくださるのだから、くびきは軽くなる。
3.「私に学びなさい」
  「学ぶ」とは、イエスの弟子となってイエスの教えたとおりに生きることである。 「イエスのように」など不可能に思えるが、神と私たちの関係が「愛」の関係で結ばれているなら、どんなくびきも重く感じることはないし、従い得るものなのである。神との愛の信頼関係が築かれて、私たちは神のみことばに従い、委ね、主に与えられた信頼に応えることができるようになる。幾度となくこのテキストで「私は、私の、私に〜」と語り、ご自身を提供しておられる。この主にしっかり結びつきさえすれば、私たちは本当の魂の休息が与えられるのである。