【No.51】 飼い葉桶の中の救い主
2002.12.22 礼拝メッセージ ルカ2:1〜7  園 謙慈師
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イエスはベツレヘムの飼い葉桶の中で生まれた。なぜ、そこなのか?
主のご降誕の霊的意味を知り、真の喜びに満たされよう。

@ 「ベツレヘム」と「飼い葉桶」の理由と意味
 まず「ベツレヘム」でとあるが、これは旧約の預言の成就である(ミカ5:2、サムエル上17:12)。
ダビデと同じベツレヘムで生まれることは救い主のしるしであった。 当時の皇帝アウグストは「救い主」と称されていたが、世界の王、本当の救い主は小さいダビデの町に、赤子としてお生まれになった。
 では、なぜ救い主が「飼い葉桶(家畜のエサ入れの)中」にお生まれになられたのであろうか。じつに、宿屋には「彼らのいる余地がなかった」からである。それは物理的な意味だけではなく、神を拒み受け入れない人間の「心の状態」を表している。 家畜小屋(ほら穴)は暗く、冷たく、汚い。これはまさしく、私(人間)の心の状態である。自己中心で自分勝手な生き方をし、神を排除するような罪だらけの人間。 自分の生活や楽しみのためだけにあくせく生きる現代人は心が亡び、「癒し」を求めている。 だが、癒しのために何を得ても、イエスを信じない心は心からの「満足」を得ることはできないのである。
 「飼い葉桶」は救い主の貧しさ・低さを象徴している(ピリピ2:2〜)。 神の権威で「上から」、余力で人々を救おうとされたのではなく、身を低くし、私たちを「下から」救おうとされ、神の御子たるお方が人間のどん底(一番低い所)にまで落ちてきてくださったのである。そんな私たちの心の中にイエスは生まれてきてくださったことを覚えたい。

A神の愛が表されたクリスマス
 イエスが生まれた目的は「十字架上で死ぬこと」であった。罪に滅ぶ私たちを憐れみ、罪と死を打ち砕くために来られた。クリスマスとは、神の人間への熱烈な愛ゆえの、奇跡の出来事である。人間の親ももちろん子を愛するが、その愛には限界がある。しかし天の父親である神は、私たちを造ってくださったゆえに、永遠に愛し続け、永遠の命を与えてくださるのである。
 神の御子が私たちと同じ肉体を持ち、痛みも苦しみも、そして不都合なことも「共に」味わって、十字架上で究極の苦しみをも味わってくださった。 自分の楽しみだけを求めて生きる限り、「神の御子が人間として生まれた」という意味は分からないであろう。あなたの悲しみも痛みも、全て理解してくださるためにお生まれになった主イエス。主は「あなたのために」生まれてきてくださった。イエスに生きる意味を見出し、生きる喜びを頂こう。
  「全世界の」人口調査、「すべての」民に与えられる喜び、「みな」不思議に思った・・・と聖書にあるように、 神の恵みから洩れる者はひとりとしていないのである。「すべての人」が神に覚えられ、数えられている。 その喜びを深く味わい、他者に伝えていくことがキリスト者の使命である。
 取税人ザアカイの例をみてみたい。当時、「罪人は絶対に救われない」と思われていた。 しかし、誰も入りたがらない罪人ザアカイの家に、イエスは客人として入られた。 ザアカイは喜びに満たされ、罪を悔い改め、心を入れ替えて救われた。 「今日、救いがこの家に来た」とある。
 私たちひとりひとり、主に名を呼ばれている。 素直に心を開き、罪を認めて悔い改め、主を心に迎え入れ、喜びに満たしていただこう。