【No.46】 嘆きが喜びに変わる時
2002.11.17 礼拝メッセージ マタイ 11:20〜27  園 謙慈牧師

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人間の自己中心的欲望ゆえに起こる失望が、「嘆き」の原因の大半であろう。
では、「イエスの嘆き」はどう違うのか。
また、イエスの嘆きが喜びの賛美へと変わったのはなぜだろうか?
@イエスの嘆きの原因
 20節に、「悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた」とある。イエスは彼らを裁き、呪ったのだろうか? そうではない。人々の滅びを予見され、うめき、叫び、嘆かれたのだ。奇跡を行い、病を癒し、全力を注いで福音を伝え、「神の前にへりくだり、神を神とすること」だけを求めたのに、人々は罪を罪と認めず、悔い改めなかった。
 人間は「自ら決断する意志」を持っている。その「意志」を、神は尊重してくださる。「真の悔い改め」は、だれかれに強制されてできるものではない。自らへりくだり、おのれの罪を心底恥じ、悔い改めるのである。自己中心から生じる嘆き(家族の問題、経済の問題、病や老いの問題等) が本当の嘆きではない。本質は「心の罪」と「神との断絶」にある。
 イエスは、私たちの罪を責めて、断罪するためにこの世に来られたわけではない。私たちを「救うために」来られた。だから、悔い改めようとしない人々に対して嘆き、滅びがもたらされることに心を痛めた。
 イエスは悔い改めない人々に対して諦めたのではない! 「悔い改めない罪がどういうものであるか」を十字架によって表され、全人類の罪をご自分の痛み・苦しみとして嘆いたのである。
A 賛美(喜び)の理由
 嘆き・悲しみの状況は変わらないのに、25節から突然、喜びの賛美が始まる。「イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた」とルカによる福音書では記されている。それはどうしてなのか?
 私たちの嘆きは、悪魔の誘惑によって神から焦点を逸らされることからはじまる。自分を中心とし、自分に不都合なことが起れば嘆く。つぶやく。しかし、神に焦点を合わせる時、状況は変わらなくても、喜びがあふれるのである。
 「苦しい現実を見て、嘆き、不信仰に陥る」のでなく、そこから目を転じて神を見上げ、「神のなさることは正しい。全てはあなたの善意から出ているのです」と賛美する時、嘆きは喜びへと変えられる。
B 神の知恵
 人間的なちっぽけな賢さを誇り、「自分の力で何とかできる」と高ぶる者には、神の真理はますます隠されてしまう。人間の知恵・力を頼るのはクリスチャンといえども例外ではない。 25節の「幼な子」とは、自分は未熟で愚かで、何も分かってない、神に頼らなければ生きていけない、とへりくだる者のことである。「自分は分かっている、自分でできる」と「大人」は思うが、その心は高ぶっている。
 人間の知恵は神の知恵に反するもので、イエスを十字架にかけてしまった。しかし、主は十字架の愚かさを通して、人を救いへと導かれる。 そして、父なる神を知る者はイエスと、父をあらわそうとイエスが選んだ者とのほかに、だれもいないのである。

この世で嘆きは尽きない。しかし、嘆きを通して神に近づけることは「大きな恵み」 である。神が常に共にいて下さる。私(たち)のすべては神に知られている。 主を見上げ、嘆きの中でも主を喜び、賛美しよう。