心を合わせて聖霊を待ち望む教会
      ペンテコステ礼拝、使徒言行録1:8〜10.   2008.5/11

使徒言行録1章8〜10節.「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

使徒言行録2章1〜4節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


        心を合わせて聖霊を待ち望む教会

               ペンテコステ礼拝
                  使徒言行録1:8〜10.   2008.5/11

 今朝の聖霊降臨祭は、ペンテコステと言われるキリスト教三大主日の一聖日です。今朝開いた”使徒言行録”は、”聖霊言行録”とも言われます。使徒の働きを記述しながら、”使徒を通して聖霊がどのように働かれたかを記した書だから”です。

 ”ペンテコステは、教会の誕生日”です。”聖霊が降って教会が誕生したから”です。クリスチャンも、聖霊を受けて、新しく生まれ変わる経験をした人達です。そのように人が新しく生まれ変わる世界が、2千年前のペンテコステの日に始まったのです。

 さて、その”注がれる聖霊を受ける為には、受け手側にも準備が必要”なのです。それは、人間的な準備ではありません。熱心に頑張って何かをするのではなく、”霊的な準備=悔い改めという備え”です。

 聖霊を求める人は、見えないものを大切にする人です。しかし、日本のような物質至上主義の国では、目に見えない物を大切にする事は難しい事です。”信仰も、目に見えない神を見つめる歩み”です。

 ”見えない部分で、見えない神に、自分の時間や犠牲をどれだけ献げられるかが問われる歩み”だからです。ですから、見えないものを見つめる難しさをクリスチャンは知っています。

 だからこそ、”教会とクリスチャンは、見えない聖霊を上から受けなければ、キリストの証人となる力を受ける事が出来ない”のです。教会に出席されている方なら、誰でもキリスト教の解説者になる事が出来るでしょう。けれども、”それだけでは、救い主の証人となる事は出来ない”のです。

 ”人は聖霊を受けるという事は、キリストの霊、御人格、愛、聖さ、力を受ける事です。ですから表情一つ、愛の言葉一つで、キリストの証人になる事が出来るようになるのです。

 しかし、その為には、主イエスが、その人の生活の原動力、また、キリストが、心の中で、その人の主人となっている事が必要”なのです。

 娘は救われてから、自分でデボーションを続けていました。高三のある時から、共にデボーションをするようになりました。暫くして気づいた事は、恵みという事が良く分かっていないと言う事でした。”聖書を読んでも、中心聖句が分からなかったから”です。

 ”聖書は、聖霊によって、恵みの光で読むと、中心の御言葉が見えて参り”ます。反対を言えば、”恵みが分からないと聖書が分からない”のです。

 ”恵みと言うのは、自分の罪の重さが分かる事と、その罪が、十字架で赦されるという事の重さと深さが分かる事”です。そして、”それを教えて下さるのが聖霊”なのです。

 何故なら、”聖霊なる神は、十字架に架かっておられた主イエスと共におられた唯一人の御方だから”です。

 ”聖霊なる神だけが、十字架上の主イエスと共に苦しまれたので、私共に自分の罪の恐ろしさを示す事がお出来になる”のです…ですから、”罪の罰として私共を待っている、神から捨てられる底知れぬ孤独と、神の怒りと審きの恐ろしさを教えてくださる”のです。

 と同時に”聖霊は、十字架に架かり続けられたキリストの愛、そして、十字架の救いと、復活の希望という恵みの深さを教えてくださる”のです…”私共が聖書を読む時、聖霊は、御言葉を通して、この恵みを語って下さる”のです。

 昨年のある晩、受験中の娘に、夜遅くまで、”聖書を読む時は、聖霊によって、恵みについて語っている御言葉を聴く事だと語り”ました。

 娘は、その晩、福音(恵み)が分かったのでしょう。翌日から、恵みの光で聖書に聴く事が出来るようになったのです。礼拝に出席している顔も変わりました。聖霊によって、人は恵みを知る事を改めて教えられた出来事でした。

 テーリッヒという神学者は、「聖霊が降る為には、私共は自分を捨てなければならない」と言いました。”ただ「聖霊を下さい」と願っても、それだけで聖霊が降らないのです…聖霊を受ける為には、自分を霊的に整える必要があり”ます。

 それが”砕かれて悔い改める事であり、そして自分を献げる事”なのです。 これは抵抗がある事と思います…けれども、聖霊を受けて、恵みに満たされる人生を味わいますと、何故、もっと早く、この恵みの世界に飛び込まなかったのかと必ず思う筈なのです。

 「聖霊を下さい」と、多くのクリスチャンは祈ります。おそらく「私は聖霊はいりません」というクリスチャンはおられないと思います。しかし、”聖霊を求める時、私共は、主イエスの十字架を心に留めなければなりません。」

 十字架で、どんな大きな代価が支払われたかを…。また御子イエスの、私共への献身の愛の深さを忘れてはならない”のです。

 ダビデは、3人の勇士が命がけで持ってきた水を、どんなに渇いていても飲もうとはしませんでした。Uサムエル記23章16節…同じく、私共も、”十字架の主イエスの、私共の為に献身して下さった、その愛の重さを軽んじてはならないのです。その事を重んじる時、人は、はじめて砕かれて献身する事が出来るからです。そして聖霊を受ける事が出来る”のです。

   キリストは、教会にも聖霊を受ける事を待ち望んでおられる

 聖霊を受けた時、弟子達は二階座敷で、婦人達や主イエスの母マリア、またイエスの兄弟達と心を合わせて熱心に祈っていました(悔い改めの連鎖祈祷)。弟子達が、”その祈りの中で導かれた事”がありました。それは、”イスカリオテのユダの代わりに、1人の使徒を立てる”という事でした。

 ”聖書で12は、神の民を現す大切な数字”です。”弟子達は12人の弟子から、1人欠けたまま祈っていましたが、そのままでは心を合わせて祈れなかった”のでした。

 ”1人が欠けるという事が、全員が欠ける事に気づいた”のでした。そこで”彼等は一人を使徒として補充し、その後で聖霊が降った”のでした。

 ”病人は、身体全体が悪いのではなく、どこか一部が悪い”のです。けれども全身が共に苦しみます。それは、”キリストの躰である教会も同じ”なのです。

 ”教会は、信徒の一人が、霊的に病んでいるなら、聖霊を受ける事は出来ない”のです…”人間的な働きは出来ても、神の御業に預かる事が出来ないのです。一人が全体であり、一人の状態が躰全体に影響するから”です。

 ”出エジプトの時、イスラエルの民が、40年間荒野を彷徨い、ついにカナンに入る事が出来たのは、神が共におられたから”でした。しかし、その後、巨大なエリコの町との戦いに勝利したイスラエルが、小さく弱いアイの町に敗北したのです。

 それは、”アカンという1人の神への背信行為の結果”でした…”1人の罪ゆえ、神の臨在を失った結果、イスラエルが敗北した”のです。

 多くの人々が心を合わせるのは、この世では極めて難しい事です。しかし、”教会は、全員の霊性(悔い改めと、神を愛する献身)が整い、一致して聖霊を待ち望まない限り、聖霊に預かる事が出来ないのです。けれども聖霊を受けるなら、教会は、天地を創られた神の御業を拝する所”となるのです。

 マタイによる福音書16章18節に、「私は、この岩の上に私の教会をたてよう」と言うキリストの御言があります…キリストが教会(私共)を通して、力強く働く事がお出来になる、キリストの躰となる事が教会の使命”と主が言われたのです。

 ”その為にこそ私共は、群れの中の、霊的な欠員の為に執り成し祈り、また、何よりも、絶えず自分自身の心の中の、霊的な欠員を吟味して、気づく毎に悔い改めるのです。

 そのようにして、この土居教会も霊的に一致する時、教会は聖霊を受け、力強いキリストの御業を見、また地の塩世の光となる事が出来る”のです。