主の言葉を聴く
ヨシュア記9章.2008.3/30
中心聖句
ヨシュア記9章14節「男たちは彼らの食糧を受け取ったが、主の指示を求めな かった。」
箴言3章5節「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない」
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Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
今週からヨシュア記に戻ります。ヨシュア記から、エリコとアイの町を攻略した事を学んで参りました。その勝利の後、ヨシュアは、イスラエルの民をエバル山に集めて、律法を石に刻んで読み上げました。
それは、自分達が神の民とされている事を再確認しアイデンティティを確立する為でした。この事は、クリスチャンも、節目節目で、自分が十字架で救われ、神の民とされている事を確認する必要がある事を示していると思います。
このイスラエルの民の集結は、ヨルダン川西岸周辺の国々にとっては脅威に映ったようです。そこでヘテ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王達は連合を組んでイスラエルと戦おうとしたのでした。
そうした中、ヨシュアが率いるイスラエルが、征服しようとしていた三つ目の町は、ギベオンでした。今までの二回、エリコとアイへの侵攻では、戦いがありましたが、このギベオン侵攻は無血入城でした。周辺の国が連合を組んでイスラエルに立ち向かおうとしていた時、どうしてギベオン人は、周囲の国々と共にイスラエルと戦わなかったのでしょうか?
ギベオンは大きな町でしたが、エリコとアイの町の陥落において、イスラルと共に神がおられるという話を聴いて、自分達の危機を悟ったからでした。神が共にいるイスラエルと戦っても勝てないと思ったのでした。
そこでギベオン人達は策略を練りました。あたかも遠くからきた民族のように変装して和平交渉をしたのです。
ぼろぼろのカバン、ぶどう酒を入れる皮袋も破れを繕った物を持ち、靴も着物も古びたものを身につけたのでした。更に、カラカラに渇いたパンを持ち、顔にもドロをつけ、つかれきった演技をしながら、「我々は遠い国からやってきました。それで今、我々と契約を結んでください」(ヨシュア記9章6節)とヨシュアに訴えたのでした。
イスラエルの社会は契約社会でした。日本も世界の潮流に飲み込まれて、契約社会になりつつあります。特に、”イスラエルの社会の契約は絶対”でした。それは、”神の御前で約束を交わす事を意味していたから”です。
それゆえイスラエル人は契約には慎重でした。この時も、初めはギベオン人を近くに住む民かも知れないと疑ったのでした。けれども丁寧に近づく彼等の姿に騙されて、”イスラエルはギベオン人の食料を受け取り共に食事をした”のです。
この”食卓を共に囲む契約”は、先週もお話しましたが、”食卓に招いた家の主人が、客人に対して「私の全存在を持って、命がけで、あなたを守る」という契約”でありまして、それが、”主の食卓である聖餐に続いている”のです。
ここで、”イスラエルはギベオン人と、「あなた達を殺さず。守り抜きます」という契約(シャローム)を結んでしまった”のでした。シャロームというのは、イスラエルの挨拶の言葉で、「神の平安があるように」という意味があります。神のご加護の約束は、人に心底の平安を与える事から、”契約をシャーローム”と呼ぶようになったと思われます。
この時、”ヨシュアは、一つの大きな失敗”をしていたのです…それは、”主の指示を求めようとしなかった事”でした…この、”主の指示”という言葉には、直訳しますと、「主の口」という意味があります。
つまり、”「イスラエルが主の御声に聴こうとしなかった」と言っている”のです。ヨシュア達は、”自分達の考えだけで決めてしまう”という間違いを犯してしまったのでした。
イスラエルは、前のアイとの戦いに於いて、始め敗北しました。敗因はいくつかありますが、そのーつが、”神に尋ねる事をしなかった事”でした。ついこの前、失敗したばかりなのに、ここでも同じ失敗を繰り返したのです。
”信仰生活は、敗北の原因を顧みて、悔い改めませんと、必ず同じ失敗を繰り返してしまい”ます…”試練の中で神の愛から目を離してしまったり、御言葉に聴く事を忘れてしまったりを繰り返す”のです。
ですから、どんな小さな事でも、神に、「神様。これをしていいでしょうか、駄目でしょうか」「神様、お言葉を下さい。導いてください」と祈る習慣を身につけている事が大切なのです。
カウンセリングの先生から、「プロほど基本に忠実なのです。私も毎朝、カウンセリングの基本の十箇条を自分に問い、自分と対話しています」という事をお聞きした事がありました。
”信仰の歩みも同じなのです。基本中の基本である、神に聴く事をおろそかにしますと、サタンに足下をすくわれ信仰の敗北をきしてしまう”のです。
さて、この和平協定を結んだ三日後に、イスラエルは、ギベオン人が近くに住んでいる事を知り、騙された事を悟ったのでした。しかし、先にも申しましたが、イスラエルの契約は絶対なので、一度結んだ契約の変更は許されなかったのです。
時代は降ってダビデの時代、3年にわたって、飢饉が続いた事がありました。その原因が、サウル王がギベオン人との和平協定を破って、彼等を殺した事にあったと知ったダビデ王は、飢饉が止むように、ギベオン人に償いを申し出ました。
彼等はサウル王が既に死んでいたので、サウル王の子孫7人を木にかけて殺す事を求めたのです…この出来事も、”一度主を指して誓った誓いは、時代が過ぎても絶対である事を物語っている”のです。
”主の食卓の契約である聖餐”も、”キリストが十字架で流された血潮と、裂かれた肉体を信仰によって食する契約です。それゆえ、どんな弱さがあっても、失敗をしても、神に主イエスにつながっている限り、十字架の救いと永遠の命は絶対”なのです。
この”契約の絶対性という事が日本人には分かりにくい”のです。それゆえ、「十字架が、自分の罪を赦し救う。そして罪赦された私を、神の子供、神の民とする」という”神との契約”に対しても、”自分の霊性の状態によって、自分の情緒的感覚で、救いの確信まで揺れ動いてしまう”のです。
さて嘘をついたギベオン人は、神の民を騙した罪ゆえ呪われて、イスラエルの庇護の下に、奴隷として仕える事になりました。
一方、イスラエル人も、ヨシュアの軽率な契約の為に、ギベオン人の為に悩み、また、彼等のもめ事に悩まされる事となりました。また彼等を守る為に、命がけで戦わなければならなくなったのです。
何故、”ギベオン人との和平協定が、ここに記されているのでしょうか?…それは、ギベオン人がイスラエルに存在する理由を後世の人々に説明する必要があったから”です。
もう一つ理由がありました。それは、”カナンの先住民をなかなか追い出せない原因が、イスラエルの信仰姿勢に問題がある事を示す為だった”のです。”イスラエルが主の指図を求めなかった事は、神の民としての理想の姿から、ほど遠かったのでした。
箴言3章5節に「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない」とあります…私共も、様々な問題を決定する時は、自分の考えだけで決めてしまう事があると思うのです。
時としてそうした歩みは、後々大きな災いを招く事になってしまいます。ですから、神の民(教会)とされた私共は、神の言を聴かなかった。自分で判断する失敗を繰り返したイスラエルのようにでなく、いつも御言葉を通して、神の御声を聴く事を心に刻みましょう。
そして、”与えられた主の御言葉から心に受けた平安によって、様々な決断をしていくクリスチャン、そして教会でありたい”と思います。