エマオ途上…なおも先へ
 ルカによる福音書24章13〜35節.2008.3/24イースター礼拝
      
「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。」               ルカによる福音書24章28節
              
 この物語の冒頭に、「ちょうどこの日」(ルカ24章13節)と書かれています。”この日というのは、イエス・キリストが復活された日、即ちイースタ−の日曜日”でした。

 「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン(役11q)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、その朝起きた、主イエスの復活について話し合っていた」のでした。

 この二人の弟子は夫婦ではないかという人もおります。12弟子のもう1つ外側にいた弟子達でした。そんな弟子達の下に主イエスは近づかれ、彼らと一緒に歩き始められたのです。

 福音書を見ると、復活の出来事に戸惑う弟子達の下に、主イエスが何度も訪ねられ、声をかけて御自身の復活を証された事が記されています。

 この主は、私共が、復活の主にお会い出来る為に、今も私共の下に訪ねて来て下さる御方なのです。

 所が不思議な事に、”二人の弟子は、その御方が主イエスであると気づかなかった”のでした。そして、自分達の師である主イエスが十字架に架けられて死なれた事を切々と訴えたのでした。

 更に、その主が復活されたという噂が流れ、困惑している事をも語ったのです。自分達の師匠に気づかない弟子達。主イエスが、語り続けて来られた通りに復活されたにも拘わらず、気づかない弟子達…これほど悲しい事はないと思います。しかし、よく考えてみると、この姿は、多くのクリスチャンの姿なのかも知れません。

 クリスチャンであっても、主イエスを忘れていたり、主のお言葉を聴く事に鈍い時があるからです。この弟子達が復活したイエスに出会っていながら、主に気づく事ができなかった事を、わが事としてよく噛みしめなければなりません。

 思えば弟子達は、かつて主イエスと一緒に生活していた時から、主イエスの事がよく分からなかったのです。主イエスに、自分勝手な願望を願ったり、自分勝手な救い主のイメージを投影していたのです。それゆえ主イエスが十字架に架かられた時、彼等は期待が裏切られたと感じて主を捨てたのでした。

 復活された主イエスは、エマオに向かう二人の弟子に、根気と愛をもって、”聖書全体に預言されている、救い主についての記述が、御自分を指している事を説き明かされ”ました。しかし、それでも、この弟子達は「主イエスが、キリスト(救い主)だと分からなかった」のでした。

 人には、自分の立場や都合、また思いからしか物が見えなくなる弱さがあるのです。それは信仰においても言える事です。”人の心の深い所には、神は自分に御利益を与えて下さる御方の筈だという思いが根深くある”のです。

 ですから、辛く悲しい逆境に陥ると、神の愛への信頼が揺らいでしまい、神の愛の言葉が心に届かなくなり、主イエスを見失ってしまうのです。

或る牧師が、牧師として任職を受けられた27歳の時、病気になって「一生治らない」と宣告されました。でも、「神は全能だから、いやしてくださる」と信じて祈り続けられたそうです。

 しかし、何年祈ってもいやされず、彼は、病気の苦しさと同時に、「神様、どうして私を無視するんですか」という怒りが重なり、気持ちが荒れていかれました。

 ある日、友人から、一枚のカードが届き、そこに、「私は聞いた。『イエス様、私の事をどのくらい愛してますか?』イエス様は両腕を広げて、『こんなに愛してるよ』と言って、死んで下さった」という賛美の歌詞が記されていたそうです。

 それを読んだ瞬間、”両腕を大きく広げて十字架に架かっておられるイエス様の姿が目の前に見え”、そして「こんなに愛してるよ」と何度も語りかけてこられるイエス様が分かったのだそうです。

「イエス様は私の為に命まで下さったのに、私の信仰はいつしかご利益信仰になり、「病気を治してくれないから」といって、イエス様を恨んでいた事に気付いた」そうです。

 そこで、「主よ、ごめんなさい」と悔い改め、その時から十字架を見上げる度に、「ああ、愛されている」と感じる事ができるようになったという事です。神の言を、神の愛として聴く為には、自分の前面にある思いや願い。そして怒りを脇に置き、神の言に心を開く事が大切なのです。

 聖書に戻ります。一行が目指すエマオの村が近づいてきました。時刻は既に夕方になっていました。28節に、「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」とあります。

 ”主イエスの目的地はエマオではなかった”のです。これは深く心にとめなければならない一文です。 しかし二人は、「一緒にお泊まりください」と言って、主を無理に引き止めたのです。

 二人の弟子は、その御方が主だと気づかないながらも、主に強く心を惹かれていたからです…主は、彼等の「お泊まり下さい」という求めに応えられ、予定を変更して弟子達と一緒に宿をとられたのでした。

 その晩、主は食卓につきました。そして、”主は、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになられたのです。すると二人の目が開け、その御方がイエスだと分かったのでした。けれども、その時、肝心の主の姿は見えなくなった」のです…ここには大切な意味があるのです。

 当時のユダヤ人の社会では、”食卓を囲む事は、礼拝に次ぐ、神聖な契約”でした…”食事に招いた家の主人が、客人に対して、自分の全存在をかけて守り抜くという、命がけの契約の場だった”のです…それゆえに、一家の主人が、パンを手に取って祈りを献げ、それから、パンをちぎって客に手渡したのです。

 ですから、”この主イエスの食卓も、「私は、神の力である、十字架の救いをもって、あなたを救い、あなたを守り抜く」と言う、神が全存在をかけられた、一方的な神の愛による契約の場だった”のです。

 二人の弟子は、死人の復活を疑った結果、主の復活の噂に戸惑い、主が見えなくなったのです…けれども、”主の食卓を囲み、手渡されたパンを受け取った時、心の目が開かれ、パンを手渡す主の御手に、大きな釘跡がある事に気づいたのです。そして、そこに死を乗り越えた、神の御手を見た”のでした。

 そして、この御方こそ、”復活された救い主”と分かったのです。聖書から説き明かしてもらっても分からなかった弟子達でした。けれども、”主と共に食卓を囲み、主の愛に預かった時、理屈を越えて復活の主に出会えた”のでした。

 これが、今から共に預かる、”聖餐”という”主の食卓につながっている”のです。

 ”主イエスが復活されて、今、自分と共に生きておられる事が分からなければ、信仰は私共のものにはなりません。だから主は、ここで二人の弟子に会って下さった”のでした。

 しかも、その現れ方は、劇的なものではなかったのです。ひっそりと、しかし、確実に二人の魂を捉える現れ方だったのです。しかし、”二人の弟子が、今、お会いしてるお方が、復活の主だと気づいた時には、主のお姿は消えていた”のでした。

 しかし、この復活の主との出会いは、”夢のように消える出来事にはならなかった”のです…何故なら、”心燃やされる喜びに満たされたから”でした。”復活された主イエスと出会い、心燃やされた弟子は、もう主のお姿を見る必要がなかったから”でした。

 二人は言い合いました。「エマオに向かう道で、主から、「聖書が預言している救い主は私の事である」と説き明かされた時、私達は、主イエスの復活に気づいていなかった。けれども、心が静かに燃え始めていたではないか。

しかも、それは、今も、消えずに、だんだん激しく燃えてきている」と…。”これこそ、復活の主にお会いした確かな証拠”だと気づいたのです。

 ”復活の主との出会いは、初めは静かな変化だけかも知れません。けれども、やがて大きな炎となり、自分を大きく変える”のです。この二人の弟子も生まれ変わったのです。

 そして、自分の思いでエマオまでしか行かない者から、「イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。」事を思い出し、主が望まれる地へ行く者へ、エマオの先までも、主と共に行く者へと変えられたのでした。

 ”キリストの教会は、今もなお主の食卓で、キリストに出会い、十字架の救いの愛に燃やされているのです。そして、聖書に主の御心を聴きつつ、主と共に歩んでいる”のです。

 これから”共に預かる聖餐という、主の食卓を囲み続けているから”です。
 今ここに、進学される○名の若者がおられます。2名の方は、今夜、新しい地に旅立たれます。皆さんが、これからその足で踏む新しい道で、”復活の主とお会いし、心燃やされて生まれ変わり、主イエスと共に歩む者となって頂きたい”と思います。お祈りしています。