ロバに乗って…「主の召しに応えた子ロバ」
ゼカリヤ書8章8−10節、マルコによる福音書11章3節、
                 2008年3月16日 受難週

          見よ、あなたの王が来る。
         彼は神に従い、勝利を与えられた者
         高ぶることなく、ろばに乗って来る
         雌ろばの子であるろばに乗って。 ゼカリヤ書9章9節          
「もし誰かが、『何故、そんな事をするのか』と言ったら『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」
                 マルコによる福音書11章3節

                 しゅろの主日
 本日は、「しゅろの主日」です。イースター(復活祭)の一週間前のこの日、主イエスは、弟子達と共にエルサレムの町に入城されました。工ルサレムは、ダビデ王によって基礎を据えられた千年の歴史を誇る古都でした。またユダヤ教の聖地でもありました。ですから主イエスにとって、工ルサレムは、敵対する人々の待ち受ける危険な町でもあったのです。

 その日、人々は、しゅろの枝を手に打ち振りながら、子ロバに乗って工ルサレムに入城する主イエス一行を迎えました。工ルサレム入場の前に、主イエスは、二人の弟子に向かって、「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗った事のない子ろばがつながれているのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし誰かが、『なぜ、そんな事をするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と言われました。

 そこで、その弟子達が行ってみると、その表通りに子ロバがつながれてあったので、彼らが、それをほどいて連れていこうとした時、それを見た人々が弟子達を咎めたのです。そこで二人の弟子は、主イエスの言葉を伝えて、ロバを連れていく事を許してもらったのでした。

             「なぜ、そんな事をするのか」
 今日、私共が、この物語の中で注目したいと思うのは、誰かが言った「なぜ、そんなことをするのか?」と言う言葉です。この「なぜ、そんな事をするのか」という言葉を、文脈に沿って読めば、無断で人のロバを連れ去ろうとした弟子達への警戒の言葉です。

 けれども、文脈を離れて考えてみると、この「何故、そんな事をするのか」、「そんな事をしたら、ただではすまないぞ」と言った言葉は、実は、”主イエスご自身が、敵対する人々に繰り返し〜投げつけられた言葉でもあった”のです。主イエスが説教を語られた時、病気を癒された時、悪霊を追い払われた時に、投げつけられた言葉です。

 ある人は、「この人は、何故こういう事を口にするのか?」(マルコ二・七)と言い、またある人は「どうして彼は徴税人や、罪人と一緒に食事をするのか」(マルコニ・十六)と言い、更にまたある人は「なぜ、彼らは安息日にしてはならない事をするのか」(マルコ二・二四)と言った事が、マルコ福音書に記されています。

 多くの場合、こうした言葉を投げかけたのは、律法学者やファリサイ派の人々でした。これらの宗教家達は、当時のユダヤ人社会の権威者でした。言い換えるなら、彼等の言葉は、当時のユダヤ教から見た、イエス批判であり、また世論だったのです。

 人々は、「なぜ、そんな事をするのか?なぜなら、そのロバは飼い主のものだから」と言いました。確かにその通りです。世のルールは守らなければなりません。”ルールは人を守るものだから”です。

 けれども、時として、そうした”ルールがひとり歩きを始めてしまうと、人間そのものを犠牲にしてしまう事がある”のです。「常識」や「正論」にとらわれすぎると、本当に大事な事が見えなくなる時もある”のです。

 事実、律法学者やファリサイ派の人々が主張した言葉に、その問題が極まっていたのでした。ここに、律法に縛られた宗教家達が、人々を縛り、人々を生かす事の対極にあった事が分かります。

              ロバの象徴するもの
 ”主イエスは、この宗教家達と対極におられた”のです…それが、”つながれていた子ロバを解放し、使命を与え、生き生きと生かした事に現されている”のです。

 子ロバはふだん、つながれてただじっとしているだけでした。必要な時だけ連れて行かれて、人間の為に働かされ、黙々と自分の仕事を果たし続けていたのです。馬ほどの力もなく、速くもなく、どんなに一生懸命働いても、注目される事も賞賛される事も無かったのでした。私はこうした”子ロバの姿に、自分と同じ平凡な人間の姿を見る”のです。

 おそらく主イエスの時代、ほんの一握りの裕福な人々、権力と財力に恵まれた人々を除けば、大部分の人々は生活するだけで精一杯という状況の中に置かれておりました。

 そんな中で、懸命に働き、いろいろな不安や悩みを抱え、心の安らぎを与えてくれる筈の宗教家達には、心が縛られ、生かされず、社会では権力者達に苦しめられ、搾取されながら、それでも黙々として生活し続けておりました。

 ”主イエスは、そうした苦しみや痛む人々の下に来られ、心を痛めて共感し、癒やし、そして解放されて神の下へ導かれた”のでした。
 それが、この”子ロバが、主イエスの下に、「主がお入り用なのです」と解放され、主の下に連れて行かれた事と重なる”のです。

 また、”ロバは平和を象徴する動物”としても知られています。聖書では、”馬は「軍馬」、即ち戦争を連想させ、ロバは農耕や運搬といった日常の平和な営みにかかわる平和を連想させる動物”として描かれています。

 今朝お読みしたゼカリヤ書の言葉も、”神に運ばれた真の「王」は、戦いを象徴する馬ではなく、敢えてロバに乗ってやって来るという事を預言している”のです。

 おそらく、”主イエスもまた、子ロバに乗る事によって、御自分を、平和をもたらす救い主として示された”のだと思います。”解放された子ロバは、救い主を、神との平和を与える救い主として証する使命を与えられ、生き生きと、その使命を果たした”のでした。

               キリストを乗せて歩む
 この主イエスによって解き放たれ、主に乗って頂いた子ロバは、救い主を、神との平和を与える主として紹介する使命を果たした事を、「しゅろの主日」が語られる度に繰り返し〜語られてきたのです。

 キリスト教会の歴史は、このロバと同じように、弱く小さな、そして平凡な人々が、主イエスに用いられた事により、大切な「ご用」を果たした証が充ち満ちているのです。

 例えば、ご存じの方も多いと思いますが、今治に榎本保郎牧師がおられました。榎本先生も、キリストに用いられた、小さなロバに感銘を受け、自分もまた主に用いられる「小さなロバ」、即ち「ちいろば」になろうと志されました。

 この榎本先生が書かれた、『ちいろば』という本の中に、こんな一節があります。「このろばの子が「向こうの村」につながれていたように、私もまたキリスト教には全く無縁の環境(中略)に生れ育った者であります。

 私の幼な友達が、私が牧師になった事を知って、『キリストもえらい損をしたもんじゃのう』といったそうですが、その評価の通り、知性の点でも、人柄の上からも、およそ相応しくなかった私であります。ですから、同じウマ科の動物でありながら、サラブレットとはおよそけた違いに愚鈍で見ばえのしない「ちいろば」にひとしお共感をおぼえるのです。」(榎本保郎『ちいろば』聖燈社)

 ”教会とは、この「ちいろば」の歩みをする者達の群れ”なのです…”この子ロバのように、「主のご用」の為に主イエスをお乗せして、いえ主イエスに乗って頂いて、主の証人として歩き続ける群れだから”です。

 土の器であり、更に欠けた器である私共が、主イエスの証人となるのは、独りだけでは困難です。けれども、子ロバ同士が、互いに励まし合い、互いに祈りあい、支え合えるなら歩む事ができるのです…”教会は、そのような共同体”なのです。

 ある動物園の飼育係りの方の話によると、”ロバは一見柔弱そうに見えるけれども、実はたいへん頑固な一面を持った動物である”そうです。”クリスチャンは、ちょうどそのように、力に拠り頼まず、コツコツと、愚直なまでに頑固に、主の御心に誠実に従い、世に救い主を証し続ける人々”なのです。

 それは、”献身の歩みです。この献身の心がある所で、クリスチャンは、主に似た者に変えられていく”からです。”そこで主と一つとされ、罪から解放され、主を証する使命を託された、真の「神の民」として成長していくから”です。

 この”受難週、神の子ロバとして、神のご用の為に、十字架にまで身を献げられた主を見つめつつ、私共も子ロバとして、「主がお入り用なのです」という御声を聴きつつ過ごして参りたい”と思います。