敗北の原因の除去

ヨシュア記7章24〜26節.
7:24 ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、全イスラエルを率いてアコルの谷にそれらを運び、
7:25 こう宣言した。「お前は何という災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)。」全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した。
7:26 彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。このようなわけで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている。

ホセア書2章17節.
2:17 そのところで、わたしはぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであった時、エジプトの地から上ってきた日のように。

Tペトロ2章24節
2:24 そして、十字架にかかって、自らその身に私達の罪を担ってくださいました。私達が、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

               
                 敗北の原因の除去

ヨシュア記7章24〜26節.ホセア書2章17節.Tペトロ2章24節.2008.2/24

 今朝は、ヨシュア記7章にある、イスラエルの民がアイの町で敗北した出来事から3回目の学びです。今朝は、「敗北の原因の除去」という事を学んで参ります。

 最初に7章24〜26節をお読みします。「ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、全イスラエルを率いてアコルの谷にそれらを運び、こう宣言した。「お前は何という災いを我々にもたらした事か。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)。」全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼の物を火に焼き、家族を石で打ち殺した。彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。このような訳で、その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている」

 この出来事は、目を背けたくなるような惨いものです。エリコを破る大金星を挙げたイスラエルの民が、次に小さな町アイに敗北したのでした。そして、その原因がアカンの罪にある事が発覚したのです。”アカンが神の言を離れて、自我に支配され、「見て、欲しくなり、隠したから」”でした。

 先週、それこそが、”悔い改めて神の臨在の中に生きようとしない自我”だと学びました。そして、”祈りの座を築き御言葉に立つ事こそが、人間的な不安や不信仰に打ち勝ち、神の臨在の中に生きる、ただ一つの道である”と学んで参りました。

 今朝学ぶ事は、そのアカンが石で撃ち殺されたのみならず、家族までも石で撃ち殺された事です。誰もが、「どうして、神がこんな惨い事を命じられるのか?」と感じる所です。

 しかし、そう思う時、私共は、”罪を神がどんなにお嫌いになるかを忘れている”のです。聖書がここで伝えている事は、”惨いのは神ではなく、罪というものが持つ惨さ”なのです。

 現代のキリスト教は、罪をあまり語らなくなったと言われます。”神の愛、受容、赦しばかりが語られている”というのです。確かに、神の言の説き明かしなのか、確かにカウンセリング(受容のみに重きを置く話)なのか分からない説教もあります。

 カウンセリング的説教は、耳障りが良く、教会の敷居を低くし、多くの人が集まりやすいかも知れません。しかし、”キリスト教は罪を避けて通る事が出来ない”のです。全ての人は罪人ですから、生まれながらの肉の人は、皆、神の怒りの下にあり、そこから逃れる事の出来る人は1人もいないからです。

 ここでは、神はアカンを石で撃ち殺させましたが、時を経て、神は独り子イエス・キリストに、私共の罪を全て彼の上に負わせ、宇宙が始まって以来、最大の痛みと苦しみの中で殺されたのでした。

 ここに、”聖なる神は絶対に罪を黙認出来ず、審かないでおれないお方である事があらわされている”のです。ですから、”神の愛は、十字架の贖いを通してしか経験出来ない”のです。

 あの”惨たらしい十字架が神の愛”と言うのは、”罪の贖いを経験した人々から出て来た人々の言葉”なのです。”聖なる神が、汚れた私共を、ありのまま受容して下さるのは、十字架で、神と主イエスが痛みを支払って下さった愛があった事が分かったから”なのです…”ここが分かりませんと、命あるクリスチャンになる事が出来ない”のです。

 もし、心と体が罪に支配されて、放縦に身を任せていても、神が祝福して下さるとしたら、そのような神は聖なる神ではありません。日本ホーリネス教団の創始者、中田重治師は、「罪の問題はキリスト教の関ヶ原だ」と言われました。”罪をどう捉え、どうして罪から贖われるかを第一に考えていませんと、キリスト教は、似て非なる宗教になってしまう”のです。

 ですから、”クリスチャンは、神が罪というものを、どれほど嫌い、怒られているのかをしっかり認識する必要がある”のです。その”罪に対する認識が、信仰の軸になるから”です。

 そして、それを語っているのがヨシュア記7章なのです。この”アカンの罪の断罪の出来事は、イスラエルの民に、聖であられる神が、罪をどれほど憎むお方であり、罪が、どれほど重いものかを思い知らせた”のでした。

 こうして学んで参りますと、この”7章の記述は、「アカンと、その家族を皆殺しにした神は惨い御方です」と言える次元の問題でない事”が分かって参ります。もっと重い事、”罪の重さを語っている”のです。

 新約聖書のTペトロ2:24には、「そして十字架に架かって、自らその身に私達の罪を担ってくださいました。私達が、罪に対して死んで、義によって生きるようになる為です。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」とあります。

 ”私共が義とされる(救われる)、また癒されるのは、十字架の打ち傷による”と言うのです。”この事を軽んじてはならないのです。私共は十字架を重んじ、絶えず十字架を見上げ、罪に気づく度毎に、十字架の御前に出て赦しを求め悔い改める”のです。

 そうして”罪を除去する事によって、私共は神の臨在を取り戻す”のです…こここそが、信仰者の平安と喜びと、生ける御言葉を経験していく源泉なのです。

 こんな話を聞いた事があります…ある所に、いたずら好きな少年がおりました。その子は、何時も「悪い事はしたくない」と思っていましたが、どうしても、喧嘩やいたずらをやめられなかったのです。

 ある日、お父さんが「今度悪い事をしたら、家の壁に釘を一本打つ事にしよう」と言ったのだそうです。少年は一生懸命良い子になろうとしました。けれども1日が終わると、釘が一本増えるのでした。

 1ヶ月が経ち、壁は釘だらけになってしまいました。少年はお父さんに、「お父さん。もし良い事をしたら釘を一本抜いても良い?」と聞きました。お父さんは、「いいよ」と答えました。男の子は努力して良い事をして、釘を一本づつ抜いていきました。

 更に1ヶ月が経ち、お父さんと少年は、釘がすっくかり無くなった壁を見つめていました。けれども”少年の顔には、微笑みでなく涙が流れていた”のです。”釘は無くなっていたけれども、抜いた釘跡が沢山残っていたから”です。”良い事をしても、罪の跡は消せなかった”のでした。

 お父さんは、少年の肩を抱いて、「大丈夫だよ。お父さんが壁を塗り替えて上げるから」と言って、壁に空いた穴を埋めてくれたのでした。少年は、この父の愛に感激してすっかり変わっていったという事です。

 この”釘跡に悲しむ心こそが、罪の重さに苦しむという事”なのです。”その時に人は、キリストが十字架の血潮によって、罪の跡を塗って綺麗にして下さった事が分かる”のです。

 ”壁の釘跡のような罪の審きを、主イエスがご自身の両手両足の釘跡で贖って下さった事こそ神の愛”だと分かるのです。

 このアカンが撃ち殺された谷は、「今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)」からアコルの谷(呪われた悩みの谷)と呼ばれるようになりました。

 しかし、預言者ホセアは、「やがて世界にメシヤ(救い主)が来て、アコルの谷は望みの谷と変えられるであろう」とホセア書2章17節で預言しました。それから時が経ち、”イエス・キリストが、私共の心の中にあるアカンの罪(自我)を背負い、十字架で釘付けられて、預言を成就して下さいました。

 新約聖書のTペトロ2章24節で、「そして、十字架に架かって、自らその身に私達の罪を担って下さいました。私達が、罪に対して死んで、義によって生きるようになる為です。

 そのお受けになった傷によって、あなた方は癒されました」とあるように、”主イエスが私共の罪を担い、アコルの谷(呪われた悩みの谷)である、やがて受ける神の審きの座を、癒しと希望の座に、天国に入る希望の門と変えて下さった”のでした。

 この朝、私共は、この”罪の赦しの福音を聴く者となり、福音を信じる者、福音を大胆に語る者となりたく思い”ます。