アイでの敗北
ヨシュア記7章1〜13節.
7:1 イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。
7:2 ヨシュアはエリコからアイへ数人の人を遣わし、「上って行って、あの土地を探れ」と命じた。アイはベテルの東、ベト・アベンの近くにあった。彼らは上って行ってアイを探り、
7:3 ヨシュアのもとに帰って来て言った。「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません。」
7:4 そこで、民のうちから約三千の兵がアイに攻め上ったが、彼らはアイの兵士の前に敗退した。
7:5 アイの兵士は、城門を出て石切り場まで追跡し、下り坂のところで彼らを撃ち、おおよそ三十六人を殺した。民の心は挫け、水のようになった。
7:6 ヨシュアは衣服を引き裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、頭に塵をかぶった。
7:7 ヨシュアは神に言った。「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることで満足していたのです。
7:8 主よ、イスラエルが敵に背を向けて逃げ帰った今となって、わたしは何と言えばいいのでしょう。
7:9 カナン人やこの土地の住民は、このことを聞いたなら、わたしたちを攻め囲んで皆殺しにし、わたしたちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか。」
7:10 主はヨシュアに言われた。「立ちなさい。なぜ、そのようにひれ伏しているのか。
7:11 イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。
7:12 だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。
7:13 立って民を清め、『明日に備えて自分を聖別せよ』と命じなさい。イスラエルの神、主が、『イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない』と言われるからである。
ルカによる福音書22章32節
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ecutive
Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
アイでの敗北
ヨシュア記7章1〜13節.
ルカによる福音書22章32節、 2008年2月10日
今朝は、ヨシュア記7章から、「アイでの敗北」についてお話しをして参ります。エリコを攻略し勝利したイスラエルの民は、アイという小さな町、村といった方がよい町に敗北してしまうのです。
先週、信仰の戦いは必ず勝利すると申しましたが、早速、次の戦いで敗北してしまうのです。”ヨシュア記の根底にあるテーマは、信仰は戦いである”という事です。新約聖書の光で見るならば、”信仰は祈りの座の戦いである”という事になります。
何故、”祈りの座が戦いなのか?”と申しますと、”祈りは、戦って下さる神に信頼しきれるかどうかの戦いだから”です。ですから、”信仰の勝因は、私共にあるのではなく、全て、戦って下さる神にある”のです。けれども、”それを忘れて、自分の力や知恵や経験によりたのみ始めますと、人は途端に敗北してしまう”のです。
しかし、それは、”信仰の敗北ではない”のです…”信仰の戦いから一歩退いた結果”なのです。ですから、”信仰がどこからずれていたのか、その原因を除き去りますと、私共は再び信仰の勝利に歩む事が出来る”のです。
今朝は、信仰の敗北の時、挫折した時に、そこから立ち上がる事について学んで参ります。
エリコで勝利したヨシュアは、次の攻略地である、アイの町にスパイを送り込みました。偵察を終えて帰ってきたスパイは、「あのアイの町は、小さな町なので、全員で出陣する必要はありません。二〜三千人の兵で充分でしょう」とヨシュアに報告したのでした。ここに”イスラエルの民の自己過信がある”のです。
案の定、彼等はそこで敗北して、精兵を36人も失ってしまい、残りの兵達も、やっとの事で逃げ出したのでした。そして、それを聞いた何十万の民は、これから先の戦いを案じ、恐れに包まれ戦意を喪失してしまいました。
クリスチャンや教会が肝に銘じなければならない事は、”上手くいっている時が一番危ないという事”です。勝利をした時、恵まれた時に、隙を突かれて一歩踏み留まって、”神の前に頭を垂れる事…神に対する畏れと謙遜を忘れますと、途端に敗北してしまう”のです。
信仰の戦いは、「この間、あの御言葉で祈ったから、今度もそうすれば良い」と、仕事のマニュアルのように、自分の経験に頼もうとすると足下をすくわれてしまうのです。”信仰の戦いは、毎回〜全力投球の祈りの座の戦い”だからです。
新約聖書にも、そうした事柄が記されています…使徒達に聖霊が降り教会が誕生した時、聖霊に満たされた使徒達や信者達は、自分の持ち物を神に献げ、「これから、みんなで、この福音を全世界に伝えよう」と燃えていたのです。そんな時、”アナニヤとサッピラの事件が起きた”のでした。
この夫婦は、献げ物をごまかしたのです。献げる事を惜しんだだけなら罪は軽かったかも知れません。けれども、この夫婦は、全てを御存知である神を、そして心に罪を示して下さっている聖霊を、更に神に立てられた使徒達をも侮って嘘を通したのでした。
”「聖霊を欺く罪は赦されない」とあります。神は、この夫婦を打たれ共同体から取り除かれた”のでした。「勝って兜の緒を締めよ」という言葉は信仰に於いても言えるのです。勝利の後、祈りが聴かれた後の虚脱感、空白感の時が危険なのです…”悪魔は心の隙を突く”からです。
先ほど、”敗北は、信仰が敗北したのでなく、祈りの座の戦いから一歩退いた事に原因がある”と申しました。ですから”クリスチャンは、信仰の挫折をした時、その原因を究明して、悔い改めて祈りの座を立て直せばよい”のです。
けれども、心が沈んでいたり、洗礼を受けて間もない時ですと、「ああ、やっぱり私は駄目だ。洗礼を受けても、私は変われない」と短絡的に思いやすいのです。しかし、そう思わせるのがサタンの手口なのです。
私共は、”キリストは、何度でも倒れた者を立たせて下さるお方”である事を忘れてはいけません。
その点、ヨシュアは見事でした。ヨシュア記7章6節「ヨシュアは衣服を引き裂き、イスラエルの長老達と共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、頭に塵をかぶった…カナン人やこの土地の住民は、この事を聞いたなら、私達を攻め囲んで皆殺しにし、私達の名を地から断ってしまうでしょう。
あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか?」と祈ったのでした。
神の御前で顔を上げられない程、深く悔い改める祈りの中で、「神よ、私達が敗北したままなら、あなたの御名はどうなるのですか?」と直談判したのでした。これは、”全てのクリスチャンの祈りでもある”のです。
ヨシュア記7章10節で、神はヨシュアに、「立ちなさい」と言われたのです…”神は、私共にも、「そこから立ちなさい」と言われているのです。何故なら、キリストが天で、私共の為に、今も執り成し祈っておられるから”です。
使徒ペトロは、キリストが十字架に架けられる為に捕らえられた時、3度、キリストを「知らない」と言って裏切りました。そんなペトロに、主は前もって、「しかし、私はあなたの為に、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と言われていた”のです。
ここから、”ペトロの弱さを知った上で、主は彼を弟子に召し、更に、信仰の敗北を乗り越え、教会のリーダーになるように祈っておられた”事が分かります。”主は、私共の為にも、そのように祈って下さっている”のです。
ですから、敗北した時、「自分は駄目だ」と短絡的に考えずに、「私が、このまま敗北したなら、あなたの栄光はどうなるのですか?…私を、あなたの栄光の為、再び立ち上がらせて下さい」と祈るのです。
ヨシュアは偉大な指導者でした。”モーセやヨシュアやダビデなど偉大な信仰の指導者に共通している点は、祈りの座の戦いを知っている事”です。彼等は、”祈りこそ最大の武力だと知っていた”のです。
たとえば、”出エジプトの後、荒野でのアマレク人との戦いの時、モーセが一人、神の山ホレブに留まり、そこで手を上げて祈った事があり”ました。モーセが手を上げて祈っているとイスラエルが優勢になり、モーセが疲れて手を降ろすとアマレクが優勢になったのです。そこで、”アロンとホルの二人が、モーセの執り成しの手が下がらないように夕方まで支えた”のでした。祈りこそが、最大の武力だからです。
先週、お祈り頂いた、高橋泉師は、水戸教会の牧師婦人で、私の後輩です。1/27日の礼拝後に倒れられ、一時心肺停止になられ、1日中、意識不明の中を通られました。
私は、1週間、祈りの中で不安と戦っておりました。礼拝前に、静まっていた時に、ヨハネ11:4「イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬ程のものではない。それは神の栄光の為、また、神の子がそれによって栄光を受ける為のものである」が響いてきて不思議な平安が与えられました。
先日、友人から、「奇跡が起こって、1週間で退院出来、後遺症もなく、次の礼拝で奏楽のご奉仕をされた」とお聞きして主の御名を崇めました。本当に、御言は神の言だと思わせられました。
次週、詳しく学びますが、ヨシュアは、その祈りの座で、「立って、滅ぼされるべきものを、あなたがたの内から除き去り、民を清めなさい。そうすれば敵に勝利する事が出来る」と言う神の御声を聴いたのです。
「立ち上がりなさい」。「清めなさい」。「除き去りなさい」…”この3点こそ、敗北した信仰を立て直す道”なのです。”イスラエルの民の敗北は、大きな代償を伴いましたが、ヨシュアの祈りの座によって、信仰の戦いを学ぶ時と変えられた”のでした。
”キリストは私共の為にも、背後で執り成し祈っておられる”のです…ですから、”私共も、信仰の歩みにおいて敗北した時、悔い改めをもって祈りの座を築き直し、神の言に信頼すればよいのです…そうすれば、必ず、再び立ち上がる事が出来る”のです。