救いへの信仰  …ヨシュア記2章B…

ヨシュア記2章13〜21節
2:13 父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」
2:14 二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」
2:15 ラハブは二人を窓から綱でつり降ろした。彼女の家は、城壁の壁面を利用したものであり、城壁の内側に住んでいたからである。
2:16 彼女は二人に言った。「追っ手に会わないように、山の方へ行きなさい。三日間はそこに身を隠し、追っ手が引き揚げてから帰りなさい。」
2:17 二人は彼女に言った。「あなたが我々に誓わせた誓いから、我々が解かれることもある。
2:18 我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。
2:19 もし、だれかが戸口から外へ出たなら、血を流すことになっても、その責任はその人にある。我々には責任がない。だが、あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、その血の責任は我々にある。
2:20 もし、あなたが我々のことをだれかに知らせるなら、我々は、あなたの誓わせた誓いから解かれる。」
2:21 ラハブは、「お言葉どおりにいたしましょう」と答えて、二人を送り出し、彼らが立ち去ると、真っ赤なひもを窓に結び付けた。

ヨハネの手紙第一1章9節
1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


         救いへの信仰  …ヨシュア記2章B…
ヨシュア記2章13〜21節.ヨハネの手紙第一1章9節.
                          2008年1/27

 今朝は、ヨシュア記2章のラハブの信仰から3回目の説教です。ラハブの信仰を分析すると3つに分ける事が出来る事から、3回のお話しをして参りました。

 今朝の説教題は、「救いへの信仰」ですが、「あがないへの信仰」と言い換える事も出来ます。信仰と言いますと、多くの方は、ヘブライ人への手紙11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です」を思い起こされると思います。

 病気の時に癒しを信じる事、思い煩いを神の御手に委ねる事などが信仰です。けれども、”あらゆる信仰の中で、最も基本であり、重要な信仰は、救いへの信仰”なのです…キリスト教の救いは、罪のあがないだからです。その信仰が人を救う”のです。

 具体的に申しますと、”イエス・キリストが、私の為に十字架に架かって下さって、私の罪を贖って下さったと信じる信仰によって、私共の罪が赦されて神の子とされ、神との豊かな愛の交わりが回復し、更に、永遠の命があたえられる”のです。これが、”救い”なのです。

 三浦綾子さんの証…体調を崩して診察を受けた時、医師に、「気持ちの問題です」と言われた。体調が悪化したので、再診察をうけた所、カリエスと判明した。ベットにギブスで固定されて寝ている時、「気持ちの問題」という医師の言葉が、前川青年から伝道して頂いて聴いていた。十字架に結びつき、「心の罪の問題」として心に響くようになってきた。十字架の御前で、心の罪が心を腐らせる事に気づいて、悔い改めて、ギブスでベットに固定されたまま、涙の中で洗礼を受けた。身体は不自由だったが、心は自由になった…救いが、罪の審きから解放し、心を自由にするのです。

 ”人の救いは、努力とか、献金とか、教会生活の長さで得る事が出来るものではない”のです…”救いの道は、キリストが十字架で罪を贖って下さったという一点にしかない”と聖書は言います

 ”神の独り子イエス・キリストだけが、罪のない唯一人のお方であるので、罪人の身代わりになれるからです。それゆえ、キリストは、私共の身代わりに十字架にお架かり下さり、神に審れて、罪を贖って下さった”のです。

 ですから、この”罪の贖いという福音を信頼(信じる)しているかどうかが、クリスチャンであるかどうかの試金石”になるのです。

 勿論、”旧約聖書時代のラハブの信仰には、直接的な十字架の贖いへの信仰はありません”。しかし13節は、その”贖いへの信仰を暗示している”のです。

 神が共におられるイスラエルが、このエリコの町を攻めてきたら、エリコの町が滅んでしまうと悟ったラハブは、「どうぞ、その時には、私と家族の命を救って下さい」と懇願したのでした…”ここに贖いへの信仰がある”のです。

 二人のスパイは、「分かった。それでは、あなたの家の窓に赤い紐を吊しておきなさい。その家の中に居る人々には、私達は断じて手をかけない」と約束したのでした。そして、その、”赤い紐が示す救いの約束通り”に、ラハブとその家族は救われたのでした。

 ”聖書は、赤という色を特別な色”と捉えています…”赤は、血の色です。聖書は血は命を現すと考えます…聖書の最も根本にある原理は、罪の罰は命をもって支払わなければならない”という事です。その”命である血による罪の贖いを、血の色である赤が現している”のです。

 この、”命である血をもって罪を贖う”という事のルーツは、この時から40年前の出エジプトにあるのです。

 エジプトの王ファラオが、モーセが訴えたイスラエルの解放を退け続けたので、神はモーセに、「私はこれから、エジプト中の長男を皆殺しにする。動物の初子も殺す。だが羊を殺して、その血を家の玄関に塗る家の上を、滅ぼす為に私が遣わす天使は通り過ぎていく」と言われ、”災いが過ぎ越して行った事にある”のです。

 この出来事が、やがてイスラエルの三大祭りの1つの、”過越の祭り”のルーツになりました。”イスラエルでは、毎年、過越の祭りの毎に、過ぎし1年の民の罪の贖いを祈り、小羊を屠って血を神に献げて、罪の贖いを祈った”のでした。

 ”イエス・キリストは、正に、この過越の祭りの時に、神の小羊として十字架で屠られ、その血潮を持って、一度限りで完全な、罪の贖いの御業を成し遂げられ、人々を永遠の滅びから救う道を開いて下さった”のでした。

 ヨシュア記に戻ります。”ラハブも贖いを象徴する赤い紐を吊して、死から救われた”のでした。誤解しないで頂きたいのは、”赤い紐がラハブを救ったのではないという事”です…”赤が象徴する、罪からの贖い(救い)を、神の約束と信じたがゆえ、ラハブは命を救われた”のでした。

 私共は、”十字架は神の愛”と聴いています。確かにその通りです。しかし、”神の独り子を十字架に架けた以上の悪はない”事を忘れてはいけません。

 また”神は、愛する独り子イエス・キリストに対してさえも、一度、人の罪を身代わりに背負ったなら、あれ程惨い審きをしなければならなかった”のです。私共は、その”神の痛みの愛を忘れてはならない”のです。正に、”十字架は、私共の罪の重さと、神の痛みの愛の深さを物語っている”のです。

 ”キリストは、十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と魂の底からの叫びをあげられ”ました。”神の審きの恐ろしさを味わったのは、今だかつて十字架上のイエス・キリストしかおられないのです。宇宙が始まって以来、あれ以上の苦痛も、あれ以上の叫びもなかった”のです。

 ここに、”キリスト教の全てが言い尽くされている”とも言えます。この”キリストの叫びには、人の罪の重さと、罪を贖う厳しさと、御子を審いてまで救いの道を開いて下さった神の痛みの愛が表されている”からです。

 聖書は、「全ての人が一度死ぬ事と、死んだ後に審きを受ける事が定まっている」と言います。

 ”私共は、罪が贖われなければ、やがて、十字架上のキリストのような厳しい神の審きを受ける”のです。神の御前で呪われ、最後の血の一滴までも搾り取られ、血が失われると全身が凍り付くように寒くなります。また人が味わう中で最も苦しい渇きを味わい。更に、神の呪いを受けるのです。そんな審きを受け、永遠の滅びに至る定めが待っているのです。

 ”それゆえ神は、独り子を、この地上にお送って下さり、御子も十字架に架かって下さった”のでした。

 Tヨハネ1章9節に、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」とあります。

 ”これは、十字架を信じる者の罪を赦すという神の私共への契約”なのです…それゆえ、”この世に於いては、罪赦されて、神の子供として新しく生まれ変わり、神との愛の交わりに生きる事が出来るのです。

 更に、世の終わりに、神の審きの前に立つ時には、キリストが、神との間に割り込むように入って下さって、十字架の血潮という盾で、神の怒りから守って下さる”のです…その時、神も、「あなたの罪は、もうあの十字架で処分された」と言って下さるのです。だからこそ、”十字架は神の愛”なのです。

 ”ラハブが赤い紐を窓から吊り下げて救いを得た”ように、私共も、”イエス・キリストの十字架の血潮で贖われる事を信じて永遠の救いに預かる”のです。

 3回に分けて、”ラハブが救われた信仰”を学んで参りました。
@、神の救いのニュース(福音)を聴いて、神を信じた事です。
A、神を信じた結果、スパイをかくまう行動をした事です。これは神の愛を受けた者には、神を愛するゆえの行動が生まれる事を示しています。(悔い改めと、クリスチャンになった後は、神への愛の自由から御言葉への従順が生まれる)。
B、十字架の血潮による罪の贖いを信じて、完全な救いに預かる事です。
 この3点こそが、”救いに至る信仰”なのです。”信仰は聴く事から始まり”ます。次に、”聴いて従う愛が生まれ出て”参ります。そこで信仰が生き生きとして来るのです。そこで”十字架による罪の贖い信じて、明確に救いを経験する”のです…”この信仰が、私共を救い、生かし、そして導き、更に、永遠の滅びからも救うと、ラハブの信仰は物語っている”のです。