行動を伴う信仰 …ヨシュア記2章A…
新共同訳 ヨシュア記2章5〜6節
2:5 日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」
2:6 彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、
口語訳 ヨシュア記2章5〜6節
2:5たそがれ時、門の閉じるころに、その人々は出て行きました。どこへ行ったのかわたしは知りません。急いであとを追いなさい。追いつけるでしょう」。
2:6 その実、彼女はすでに彼らを連れて屋根にのぼり、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に彼らを隠していたのである。
新約聖書ヤコブ2章25〜26節
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
ecutive
Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
行動を伴う信仰 …ヨシュア記2章A…
ヨシュア記2章5〜6節.新約聖書ヤコブ2章25〜26節.
2008年.1/20
先週に続いてヨシュア記2章から神の言に聴いて参ります。先週は、”遊女ラハブが、イスラエルが敵の王達を撃破したニュースを聴いた時、神の御業だと信じて救われた事”を学びました。
今週は、同じ2章より、”神を信じた者には行動が生まれ出てくる事”について学んで参ります。
今朝の物語は、ラハブがイスラエルから派遣されてきた二人のスパイをかくまった時、エリコ側の追っ手に、「スパイを知らないか?」と問われ、「知りません」と答えた所から始まります。
今週は、”信仰には行動が生まれ出てくる”と言う事を学んで参ります。”信仰に於いて、「聞いた」とか「知っている」という事は行動が伴ってくるのです。
そうでなければ、信仰は絵に描いた餅”になるからです。どんなに教会生活が長くとも、たとえ聖書の知識があったとしても、”聴いた御言葉に対して、全存在をかける応答(信じて悔い改める。御言葉に従う)と言う従順がなければ、信仰は与えられないのです。また信仰を持っている者も命を失って行く”のです。
旧約聖書のダニエル書に、「たとえそうでなくとも」という有名な言葉があります。イスラエルの民がバビロンに捕囚になっていた時、ネブカデネザル王が、シャデラク、メシャク、アベデネコと言う3人の青年に、「私が建てた像を拝まないと、火の中に投げ込むぞ。お前達の神が、お前達を救うかどうか見ろ」と言ったのです。
瀬戸際に立たされた、その3人の青年は「王様、私達は、あなたが私達を火の中に投げ込んで、たとえ私達の神が、私達を火の中から救い出して下さらないとしても、あなたの建てた偶像を拝みません」と答えたのでした。その結果、3人は火の中に投げ込まれてしまいました。
しかし、”火の中をのぞいてみると不思議な事に、中には、3人がいる筈なのに4人が歩いていた”のです。その”先頭を歩く不思議な人に守られて、3人は無事だった”のでした。その”もう1人は受肉前のキリスト”と言われています。
話をヨシュア記に戻します。この時、”ラハブも瀬戸際に立たされていた”のでした。兵隊達がそこら中で見張っていたのです。もしかくまっている事がばれたら殺されてしまうのです…”そんな瀬戸際で、生ける神を信じたラハブは信仰に立ってかくまった”のでした。そこが大切な所なのです。
”神の言を聴いて、信じて従うという事は、命をかけるという応答を生む”のです…そうでなければ生きた信仰にならないのです。
良く、「今日の教会は足腰が弱いとか、勢いがない」と言われますが、それは”痛みを感じてもキリストに従おうとする、神の恩寵に対する応答(献身)の弱さ”が大きな理由の1つです。
また、そういう意味では、”信仰の道は犠牲の多い道”かも知れません。しかし、”その人は、神のご臨在と共に歩む事が出来る”のです。(フットプリンツの例話)
口語訳では、ヨシュア記の2章5〜6節の後半をこう訳しています。「どこへ行ったのか私は知りません。急いであとを追いなさい。追いつけるでしょう。その実、彼女は既に彼らを連れて屋根にのぼり、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に彼らを隠していたのである」と訳しています。
ここにある”「その実」という言葉は、口語訳だけの名訳で、実のある信仰という意味”です。
”ラハブは信仰を持った結果、命がけで二人のスパイをかくまった”のです…”信仰は、「〜しなければならない」と、律法で人を縛るものではありません。しかし、神の恩寵(愛と恵み)を受け、信仰を与えられた者には、愛の自由の中で行動が生まれ出てくる”のです。
4世紀の哲学者アウグスティヌスは、「私達に対する、徳のある生活を生きるように命じる教えは御言葉だ。しかし、御言葉は、そう生きる力を与える聖霊がなければ、人を殺すものになってしまう」と語りました。
”私共が、聖霊によって神の恩寵を知る事が、御言葉に従う力を与えてくれる”のです。この春巣立つ娘と、昨秋デボーションを続けました。半年前に洗礼を受けたばかりの長女は、それまで、聖書を読んでもを頭で考える事しかできませんでした。
或る夜、長い時間をかけて、聖霊によって生きる信仰について教える事が出来ました。
キリストの十字架と共におられた聖霊だけが、自分の罪の重さを、ご存知である事、神の審きの恐ろしさを御存じである事、キリストの痛みを御存じである事、その聖霊だけが、自分に、その神の痛みの愛を教えて下さる事を語りました。
もう1つ、聖霊によって聖書に聴く事をも教える事が出来ました。それから、娘は聖書を読むと、神の愛の御言葉を的確につかめるようになりました。クリスチャンは、聖霊によって、神の愛を受けて生きる事が出来るのです。
”信仰が聖霊によって実を結ぶなら、そこに行動も生まれて来る”のです。それは、”愛の自由の中から湧き出てくる行動です。新約聖書のヘブライ人への手紙も「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者達を穏やかに迎え入れた為に、不従順な者達と一緒に殺されなくて済みました。」と、ラハブの救いは、信仰から生まれ出た行為の結果”と言っているのです。
新約聖書で、神が、この御言葉を書くように導かれたのは、”神がラハブの信仰を喜んで受け入れられていた証拠”なのです。
新約聖書ヤコブ2章25〜26節にも「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者達を家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」とあります。
新約聖書のこの所でも、”行動が生まれ出て来ない信仰は、死んだ実体のない信仰である”と言っているのです。
ヨシュア記1章で、神は、「私は、あなた達の足の裏が踏む所を、全てあなた達に与える」と言われました…この「お前達にこの国を与える」という”神のお約束には、「あなたが、自分の足の裏で踏む所を与える」と言う一文もついている”のです…これは、”信仰から、自分の足で応答する者に祝福を与えると言う”事を言っているのです。
あるデボーションの本に載っていた証です。ドナルド博士という方が、ある教会で説教をした時、その教会の牧師婦人が出産を控えていました。
或る夜、その教会の牧師がドナルド博士を訪ねてきて、「生まれて来る子供がダウン症だと言われました。今から家内に話そうと思っています」と言ったのです。
ドナルド博士は沈黙の後、こう言いました。「牧師先生、こうなったのは、神が、先生と奥様に、何かご計画を持っておられるからと思います。先生と奥様なら、その子を特別に愛して下さると、神が考えられたのではないでしょうか?
その後、牧師は奥様に電話して、「神が私達に、ダウン症の子供を授ける事で祝福して下さったんだ。神が私達の人生に目的を持っておられる事を信じよう」と話したそうです。そんな二人の会話を、電話交換手が聞いていたのでした。
この人はキリスト教に否定的な思いを持った人でした。しかし、彼等の会話を聞いていて、その信仰に驚いたのです。神が、自分達を信頼して、ダウン症の子供を預けようとされていると話し合い、神の御心を受け入れて立とうとしている夫婦の言葉に驚いたのでした。
次の日、この電話交換手は病院に勤める友人に話をしたそうです。そして次の日曜日、その話を聞いた70人の看護士が教会を訪れ、その内、20人以上がキリストを受け入れる決心をした”という事です。
”自分達に対する、神の御計画を受け入れ従おうとした夫婦の会話が、こんな大きな祝福をもたらした”のでした。
”ラハブが、イスラエルに対する神の恩寵を見て、信じて応答したように、私共も、神の救いと祝福に預かる為には、自分の心の中で、聖霊が教えて下さっている、神の恩寵を顧みたいと思います。
そして神を信じ、神の御心を感謝して受け入れて従い、救いと信仰の命に預かって参りたい”と思います。