ラハブの信仰
ヨシュア記2章10〜11節
2:10 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。
2:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
ロ−マの信徒への手紙10章17節
10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
ecutive
Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
ラハブの信仰
ヨシュア記2章10〜11節・ロ−マの信徒への手紙10章17節.
2008年1/13
先週からヨシュア記を通して、”神に聴き従う事”を学んでいます。先週、”ヨシュアという名には「神は救いである」という意味がある”事を学びました。
”ヨシュアが率いるイスラエルの民が、約束の地カナンに入ってから、敵を打ち破り占領して行く”というのが、ヨシュア記のストーリーです。しかし、或る人々は、この書は聖戦として戦争を奨励していると誤解します。
この時代は、国家や社会制度が未熟な戦国時代でした。国を得る事は、民族が生きていく為に必要な事だったのです。ですから、現代のクリスチャンは、新約聖書の光で読むのです。具体的に言うと、「信仰という戦いを、どう戦っていくべきか」という視点で読む事なのです。
信仰は、”御利益ばかりを求める事ではないからです。時には反対に、神の御約束の言葉を盾にとって歩む厳しい戦いの歩み”なのです。勿論、”それは、腕力の戦いではなく、宣教の戦い、愛の戦い、聖化の戦い”です。
先週も申しましたが、”私共の為に戦い、勝利して下さるのは主イエス”です。私共は、”神の言を、自分への神の約束と信じて、主を待ち望み、主の勝利に預かる”のです。ただ、そこには、
”先行する神の恩寵に対して、応答が問われる”のです。この事について2章から1回でお話しするつもりでしたが、何度かに分けてお話して参りたいと考えております。
この2章には、遊女ラハブが登場します。ヨシュアが、カナンの国に入った時、エリコという要塞が立ちはだかっておりました。その”城壁の中に町があった”のです。
放浪の民族イスラエルが、エリコの要塞を陥落させるには、相手を偵察して弱点を突くしかなかったのです。
そこでヨシュアは、二人のスパイを要塞の入り口にあった宿屋に侵入させました。そこは表向きは外国人向けの宿屋でしたが、実は、売春宿だったのです。見方を変えれば、そこは、外の情報が一番入ってくる場所であり、エリコの中の情報も噂される所だったのです。
エリコ側も、スパイが潜入するとしたら、そこに違いないと踏んで見張っていたのでした。ですから怪しい人物が2人入ってきたと言う情報は、即座にエリコの王の耳に入ったのです。
王は、即座に追手を送りました。スパイは絶体絶命に陥ったのです。所が、ラハブは、2人のスパイを差し出さずに、屋上に隠して、「その怪しい人達は、向こうに行ったので、向こうを探しなさい」と嘘を言い2人をかくまったのでした。
その時、ラハブは、助けたスパイ達に向かって 、「私は、イスラエルの神が、エジプトから、海を2つに分けてイスラエルの民を助け出された素晴らしい神と聴いております。神がついておられる民に攻められたら、このエリコの町とて滅ぼされてしまうでしょう。どうか、あなた方の軍が攻め込んできた時には、私の命を助けて下さい。今から、あなた方を吊り降ろし助ける、この窓に赤い紐を徴として付けておきますから、助けるとお誓い下さい」と願ったのでした。
”ラハブは、イスラエルの神の話を聴いた時、その神こそ生きておられる神だと見抜ていた”のです。しかし、彼女は遊女だったのです。神から最も離れた生き方をしていた女性でした。”そういう女性が神を信じ、また神も、その信仰を見て救う”…律法の世界の旧約聖書のただ中に、”恩寵(恵み)の神”が描かれているのです。
聖書には、もう一つ恩寵が記されているのです…”ラハブの子孫にボアズの母が生まれ、ボアズはルツをめとり、その子孫にダビデ王が生まれ、主イエスへと続いていく”のです。”ラハブが救い主の系図に入れられたのです…底知れぬ恩寵”です。”最も恵みから遠い筈の人に、神の恩寵が注がれている”のです。そこで、3週に渡って、”ラハブが、どうして神の恩寵に預かれたのかについて”お話し致します。
T、聴いて信じる信仰
”遊女であったラハブが、どうして神の恩寵にあずかる事が出来たのか”と申しますと、決して、運が良かったからではありません。”神のなされた御業を他人事として聴かずに、自分の問題として聴いて信じて応答したから”なのです…それは、”神から注がれた愛(恩寵)に対して、信仰をもって応答する事”なのです。
神を知らない世界に生きていたラハブに、どのようにして信仰が生まれたかが、10節に記されています…それは、”アモリ人の二人の王をイスラエルが絶滅させた事を聴いた時、そこに、生ける神が共におられる事を見抜いた”という事です。
彼女は、スパイ達に言いました。「あなた方の神がなさった御業を聴いたからです」と告白したのです。沢山の人々がイスラエルが、強力な力を持った2人の王を破ったニュースを聞いていました。しかし、”ラハブのように、イスラエルの神の御業として心で聴いた人は他にいなかった”のです。
これは、”私共の救いに預かる過程”に似ています。新約聖書の使徒パウロも、「信仰は聴く事から始まる」と言いました。”福音をどう聴き、どう受け取るかで信仰が生まれるかどうかが決まる”のです。ですから、”神は福音を聴いた者に対して決断を迫られる”のです。
新約聖書ロ−マの信徒への手紙10章17節に、「実に、信仰は聞く事により、しかも、キリストの言葉を聞く事によって始まるのです」とあります…”信仰は、聴く事によって始まるのです…それはラハブの信仰そのもの”でありました。
ラハブは、スパイ達に、「私は知っています」と言いました。聖書の世界の、「知る」というのは、必ずしも全て理解する事ではありません。”ヘブル語の聞く「シェーマー」は、「理解する」ではなく、「聴従する」と言う事”なのです。”旧約聖書の世界には、従う事の無い聴くという事は存在しない”のです。
イスラエルの民がカナンの地に進入して以来、次々と有力な王達を絶滅させたニュースを聞いても、エリコの人々は、堅固なエリコの城壁に拠り頼んでいました。”遊女ラハブだけが、そのニュースをただ事ではないと感じ取り、自分の意志を持って、神を信じ、イスラエルのスパイをかくまった”のでした。
新約聖書のヘブライ人への手紙11章31節にも、「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者達を穏やかに迎え入れた為に、不従順な者達と一緒に殺されなくて済みました」とあります。”新約聖書は、ラハブは、信仰によって従った”と言っているのです。
ラハブがそうであったように、”信仰は、神についてのニュースを聴く事から始まり”ます。”イエス・キリストの十字架の福音を、英語では、グッドニュース”と言います。”その救いのニュースを、自分の事として聴く事から、私共の救いは始まる”のです。
今、お笑いで「右から左に受け流す」というフレーズが流行っておりますが、信仰はそうであってはいけません…”信仰は教会に来ている内に、だんだん聖書が分かってきて持てるものでなく、聴いた神の言が、その人の心の内に留まる事から始まるから”です。
”人が聴いた福音に対して、自分の全存在をかけて悔い改め、そして神に従う事が、救への道”なのです。私共もラハブのように、”聴いて信じて従うという、自覚的な信仰の応答をして、主の救いと勝利に預かって参りたい"と思います。