「私はあなたに答える」と言われる神
…新年礼拝…
エレミヤ書33章1〜3節
33:1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった。
33:2 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。
33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
エレミヤ書33章12節
33:12 万軍の主はこう仰せられる。「人間も家畜もいなくて廃墟となったこの所と、そのすべての町々に、再び、群れを伏させる牧者たちの住まいができる。
ecutive
Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
「私はあなたに答える」と言われる神
…新年礼拝…
2008年1月1日 エレミヤ書33章1〜3節・12節
新年おめでとうございます。今年も、”主が共にいて下さる事を体験できる”1年となるようにお祈り致します。
最初に、イギリスの格言をご紹介します。「もし、あなたが幸せになりたいなら床屋さんに行きなさい。そうすれば一日、幸せになれるでしょう。もし、一週間、幸せでいたいなら結婚しなさい。もし、一ヶ月、幸せでいたいなら車を買いなさい。もし、一年、幸せでいたいなら家を建てなさい。もし、あなたが一生幸せでいたいなら、正直者でありなさい」…人が如何に不安に支配されているかを言い当てている格言だと思います。
年の初めに、共にお聴き致します神の言は、エレミヤ書33章1〜3節です。「主の言葉が再びエレミヤに臨んだ。このとき彼は、まだ獄舎に拘留されていた。主はこう言われる。創造者、主、全てを形づくり、確かにされる方。その御名は主。「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなる事を告げ知らせる」
これは、昨年の祈祷会で、ある姉妹が証された御言葉です。祈りの内に、”新年の御言葉として与えられたので、新年の教会の標語”と致しました。”この時、預言者エレミヤは、牢獄につながれたのです。神は、そんな状況下のエレミヤに、「天地万物を創造した私を呼び求めよ。私はあなたに答え、隠されている大いなる事を告げ知らせる」と言われたのでした。
皆さんは星野富弘さんのカレンダーをご存知だと思います。星野富弘さんは、教科書にも出ている方です。昔、体育の先生をしておられた時に、宙返りに失敗して首の骨を折り、それ以後、首から下が麻痺しておられるのです。
星野さんは、そうした中、クリスチャンになられてから、口に筆を加えて素敵な詩と絵を描かれるようになりました。星野さんの詩の一つを紹介します。「動けない事なんか、大した事ではない。ただ嬉しくて嬉しくて、どうしようもない時にも、じっとしているのが何とも不自由である」と…。
これは、”障害という困難を突き破って溢れ出ている感謝の言葉”です。ある方が、そんな星野さんにこう尋ねられました。「神が、元気一杯の二十代の時に戻して下さると言われたら、あなたはどうなさいますか?」…そのインタビューに対して、星野さんは直ぐ「私は今のままで十分に満足です」と答えられたのです…この星野さんの言葉の中に、”神が「私が答え与える」と言われた、隠されている大いなる事がある”のです。
事故に遭った当時、彼の下にクリスチャンの方が訪れ、聖書を下さいましたそうです…ページをめくっていたら、マタイによる福音書11章28節の「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言う言葉が目に留まったのだそうです…それは、少年時代、山でお父様の手伝いをしていた頃、よく目についていたお墓に刻まれていた言葉だったのです。
そのお墓は、あるクリスチャン・ホームの子どものものだったそうです…子どもの墓標は余りにも悲しいものです。けれども、”そこに刻まれていた御言葉が、彼を救うという一粒の実を結んだ”のです。”身体が不自由になり、不安に支配されていた心を、主の御臨在の中に、人生をお任する事に導いた”のでした。
”自分の人生を、主の御臨在に任せると言う事こそが隠されている恵み”なのです。
”主に、自分を任せる事は、御言葉に聴く道しか無い”のです…旧約聖書のダビデ王は、詩篇16章8節で「私は常に主を私の前に置く。主が私の右にいますゆえ、私は動かされる事はない」と言いましたが、その様に御言葉に対する心の姿勢を持つ事なのです…そうすると”神が隠しておられる驚くべき宝が心に開かれてくる”のです。
さて、皆さんの心の中で、どの位置に主がおられるでしょうか?…”神を上に置いている人は、礼拝する時は、神を見上げるのですが、現実の生活に戻ると、神からかけ離れたものになってしまいます。神を横に置く人は、御言葉を参考までにしか聴かない人です。
神を下に置く人は、自分の欲望や感情が上になって、神を利用する御利益信仰”になってしまいます。ダビデは、神を右(正面の意味)に置いたのでした…それゆえ、王になっても、神に聴き従う事が出来た”のです。ですから、”全てのクリスチャンには、ダビデのように、「私は、あの時から、主イエスを目の前に置き、その主から御言葉を聴く様になりました」という人生の転機が必要”なのです。
神を畏れない、この世界は、自然も、政治も、人の心も、かなり歪み狂っています。”畏れるべき御方を畏れず、真理に聴き従うという心の芯を失っているから”です。”神の言を聴こうとしない心は傲慢な心です。そうした傲慢の罪が、人間関係と自然界を破壊している”のです。
”イスラエルにおいて、「右」は正面の事と申しました…また、右は権威者の位置”でもありました。”ダビデは、何時も権威と力の神を正面に見ていたゆえ、心から安んじる事が出来た”のでした。
また「右」は、”弁護人の立つ位置”でもありました。ダビデは立派な王でしたが、弱点をも持った人でした。部下の妻を横取りしたり、息子のアブサロムの謀反にあい、命を狙われ逃げ回ったのです。
そんな中で、人々から、「偉い王なのに、自分の子供一人コントロール出来ない」と言う心に突き刺さるような嘲りを受けた時、”ダビデの口をついで出てきた言葉にこそ、彼の信仰の本質があった”のです…「ダビデが、主が私の右にいて下さるゆえに、私は動かされる事はない」と言ったのは、「神が、何時も私を弁護して下さっている。だから主にお任せする」と言ったのでした。
もう一つ、”「右」は、チャンピオンの位置”でした…オリンピックでは真ん中ですが、イスラエルでは右でした。つまり、それは、”神を私の為に戦い勝利して下さる御方と信ずる”という事なのです。
先に、ダビデ王が言った、詩篇16章8節「私は常に主を私の前に置く。主が私の右にいますゆえ、私は動かされる事はない」
この「私は常に主を私の前に置く」の「置く」という言葉は、”新約聖書で、聖霊が注がれ誕生した教会の、最初の説教で、ダビデの言葉を引用した時、「置く」という言葉を聖霊によって「見る」という言葉に変えた”のです。
この「見る」という御言葉には、「透かして見る」という意味があります。”目の前に、何が起ころうとも、その出来事を透かして、その向こうに神を見る”のです。”神は、年の初めに、「私を呼べ…」と言われ”ました。
ダビデは少年の頃、3mの巨人ゴリアテに対して、「この戦いは主の戦いだ」と言って、”神を呼び神の力に寄りすがり”ました。息子に謀反され、人々に批判された時には、”神を呼び神の弁護に寄りすがり”ました。
今朝から始まる一年も、様々な人生の戦いがあると思います…そうした中で、”ゴリアテ(自分が直面している問題)だけを見つめず、その後ろにおられる、主イエスを透かして見るのです。
主が大手を広げて待っておられるのを見る”のです。そこで、”今年の初め、神が語って下さった御言葉にもう一度聴きます。
エレミヤ33章2節「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなる事を告げ知らせる」の御約束に立つのです…そこで、「主を目の前に置き御名を呼ぶ」のです。その時、主は立ち上がって下さり、主が戦って下さり、主が弁護し、主が勝利して下さる”のです。
”その時、星野富弘さんのように、神が隠されておられた恵みを味わう事が出来る”のです…そんな”主だからこそ、私共は、自分の人生を委ね、心から安らぐ事が出来る”のです。
また、続く12節には、今年、主が、どの様に教会の為に戦い勝利して下さるかが約束されています。「万軍の主はこう仰せられる。「人間も家畜もいなくて廃墟となったこの所と、そのすべての町々に、再び、群れを伏させる牧者達の住まいができる」…今年も共に、主を正面に見、主の御名を呼び、主のお約束に安らぎ、主の勝利を見て参り”ましょう。