仰ぎ見る信仰]
民数記21章4〜9節
21:4 彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、

21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」

21:6 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

21:7 民はモーセのもとに来て言った。「私達は主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、私達から蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。

21:8 主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」

21:9 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

イザヤ45:22a
45:22 地の果ての全ての人々よ、私を仰いで、救いを得よ。私は神、他にはいない。

ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


仰ぎ見る信仰


民数記21章4〜9節.イザヤ45:22.2007年9/23呟く民

 今朝で、出エジプトの物語を終わります…荒野の旅も40年近く経ちました。今回の民の呟きは、民の最後の呟きになるのです。その結果、「火の蛇」に噛まれて多くの民が死んでしまうのです。

では、イスラエルの民の呟きは、どんな呟きだったのでしょうか?…水に関する呟きは何時もの事でしたが、今回は、それに加えて、”食べ物に関する呟きも加わっていた”のでした.

 ”荒野の中で、食べ物の無い民の為、毎日、神が天から降らせて下さっていたマナに対して「こんな粗末な食物では、気力も失せてしまいます」と言う、一欠片の神への畏れも感じる事が出来ない呟き”だったのです。

そして当然、”神の厳しい審きを受ける事になった”のでした。

 モーセは、先週学びましたカデシュ(メリバの地)から、直接イスラエルに向けて北進する道をとらず、東方に向かい,王の道と呼ばれる街道を辿って北上し,ヨルダン川の東側から、”約束の地カナン(イスラエル)に進入”しようとを考えていました。

 群れは、死海の下にある”エドム”にさしかかりました…”エドム人は、ヤコブの双子の兄弟エサウの子孫”と言われています。彼らは前13―12世紀に高度な文化を持つ都市国家を打ち建てた事で知られています。おそらくこの時には、既に堅固な町を造り上げていただろうと思われます。

 モーセは、まず使者を遣わしてエドムと交渉しました。モーセは、同じイスラエル人であるエドムの王に、出エジプト以来の苦しみを語り,平穏に領土を通過させて貰えるように願いました。しかし、”エドム人の王は迎撃軍を組織し通過を許さなかった”のでした。

 ”落胆した、モーセとイスラエルの民は、エドムに背を向け、紅海の方角へ南下した”のでした。死海と紅海の中間にある、”ホル山”にさしかかった時、”モーセの兄、大祭司アロンが死んだ”のです。

 先週学んだ、メリバに於いて、「モーセとアロンはカナンの地に入る事は出来ない」と言う”神の審きの成就”でした。民はアロンの死を悲しみ、通常1週間である喪の期間を30日も喪に服したのです。

 如何に、アロンが大祭司として民に信頼され愛されていたかが伺えます。この後、”モーセも約束の地カナンを川の向こう岸に眺めながら天に召されて行く”のです。

 悲しみの中にある群れに向かって、その”ホル山では、カナン人であるアラデの王が攻めて来て、何人かが捕虜にされてしまった”のでした…弱り目に祟り目という状況下、”モーセとイスラエルの民は、精神的に徹底的に打ちのめされたであろう”と思われます。”神は、そんなモーセと、イスラエルの民を憐れまれて、力を与えて、勝利に導かれた”のでした。

 しかし、”疲れ切った民は、そんな神の御手が見えなくなっていた”のです。民は、モーセだけではなく、”直接、神に向けて呟きだしました。その結果、最悪の事態を招いてしまう”のです。

 その不平の内容は、「こんな粗末な食物(マナ)では、気力も失せてしまいます」と言うものでした。この、”粗末な食べ物というマナ(天からのパン)は、神が民の為に、毎日、天から降された奇跡の食物(愛と憐れみの象徴)でした。

 それを、「もうまずくて食べられない」と言ったのです。これが罪である事は勿論の事ですが、民の心に、神を見上げる信仰が失われていた事”も分かります。

主の審きと民の罪の告白

 ”怒りに燃えた神”は、「火の蛇」を送り、”多くの民が、蛇に噛まれて死んでしまった”のでした。この”火の蛇”と言うのは、”毒蛇”の事で、”噛まれた時に、全身に毒が回って燃えるように痛む事”から、そのように言われのです。

 また、この燃えるような痛みは、”神の燃える怒りの象徴”でもありました。あわてた民は、直ぐにモーセの所に行き、”「私達は、主とあなたを非難して罪を犯しました。」と罪を悔い改めた”のでした。

青銅の火の蛇:死から民を救う手段 

 ”主なる神は、民の悔い改めと、モーセの執り成しに応えられ、死から救われる道を示され”ました…それは、「青銅の蛇を造って竿の上にかけ、蛇に噛まれた者に仰ぎ見させよ」というものでした。”モーセは直ちに、青銅で火の蛇を造り、竿の上にかけた”のでした…すると、”主の言われた通りに、その蛇を仰ぎ見た者は死を免れた”のでした。

 こうして、竿の上に、掲げられた火の蛇の像は、神の救いの象徴”となったのです…民が救われる為にした事は、一人々が自分の意思で、上げられた蛇を「信じて仰ぎ見る」事だけ”だったのです。

イスラエル史における「青銅の蛇」

 この「蛇」と「青銅」と言う言葉は、”ヘブル語では似た発音で語呂合わせ”を見る事が出来ます。神が最初の人間を創られた時、アダムを男(イーシュ)、エバを女(イーシャ)と名付けた時もそうでした…”神のユーモア”でないかと思います。しかし、1つ言える事は、”青銅で蛇を作る事に救いの力があるのではない”と言う事です。

 心配する通り、この”青銅の蛇は、「ネフシュタン」と呼ばれ、人々によって偶像化”されて行きました。U列王記18章4節によりますと、”ユダの王ヒゼキヤが、宗教改革をした時、この青銅の蛇を打ち砕いた事”が記されています。

 この”ヒゼキヤ王による宗教改革は、青銅の蛇に救いの力があるのではなく、神の救いの約束を信じて、神を見上げる所に救いが与えられる”事を語っているのです。

新約聖書における「上げられた蛇」

 主イエスは、サンヒドリン議員で、ユダヤ教の指導者ニコデモとの対談の中で、”イエス・キリスト御自身が、このモーセが荒野で上げた青銅の蛇を例に出して、「自分もその様に上げられなければならない」と語られた”ました。(ヨハネ三:14)。勿論、それは”十字架に架けられるキリストの事”です。

 ”十字架にこそ、神の救いの力が全てあり、罪の赦しによる救いがある”のです…そして、十字架の救いの約束を、神の約束と信じた者は救われるのです。

 イザヤ書45章22節「地の果ての全ての人々よ。私を仰いで、救いを得よ。私は神、他にはいない」…”十字架の救いの約束を信じ、十字架を見上げ、罪を悔い改める者は、皆、無条件で罪が赦され、救われて、神の子として新しく生まれ変わり、自分の内に永遠の命が与えられ死に臨んでも平安がある事に気づく”のです。

 そして、そこに、”神との愛の交わりが生れ、喜びと輝きが沸き上がってくる”のです。