「偽証への戒め」…十戒:第九戒…

出エジプト記20章16節
「隣人に関して偽証してはならない」

ガラテヤ人への手紙2章19〜20節
2:19 私は神に対して生きる為に、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。

2:20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私の為に身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


      「偽証への戒め」…十戒:第九戒…
 
    出エジプト記20章16節.2007年8月5日

 今朝共に学びます、十戒の第九戒は、「隣人に関して偽証してはならない」と言う神の言です。

 先日ラジオで、「裁判の冒頭で、「偽証はしません」と宣誓します。キリスト教文化の欧米人には、神の御前で誓う重さが分かる事が多い。けれども日本人には分からない事が多く、宣誓の効力が弱いので、今、日本では、偽証罪を重くする方向で動いている」と言っていました。

 日本には、白黒ハッキリさせずに穏便に済ますという文化があります。それは”建前と本音という二元の社会”を生み出しました。それゆえ「嘘も方便」という言葉も生まれました。これは、私共にも、深く染みこんでいる体質かも知れません。

 それは、もめ事を最小で済ませると言う良い点があります。けれどもトラブルの原因が解消されずに残る欠点でもあるのです。

 しかし、”信仰に於いては、神は建て前と本音と言う二元的な生き方でなく、一元に生きる(本音で生きる)事を求めておられる”のです。それが「偽証してはならない」と言う事なのです。ある人は、聖書を読む時、「今、神が私に語って下さる神の言を聴くのだから」と言ってネクタイを締めて読んでおられました。マネする必要はありませんが、”神の言を本音で聴き、本音で生きる大切な姿勢が伝わり”ます。

 ”信仰が二元的な生き方(建前と本音)になると、たちまち信仰が曇って来るからです。また信仰の成長も阻まれる”のです。

 出エジプト記の18章の13節以下には、”イスラエルの民が神に十戒を授かる心の備えの時の事”が記されています。それは”裁判の制定”でした。それ迄は、モーセが裁きをしていましたが、イスラエルが大きくなって、モーセ1人の手に負えなくなってきたからでした。

 出エジプト18:21〜22「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があった時だけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい」

 こうして”イスラエルが、十戒を通して共同体の命を頂く前に、共同体としての組織が出来たのでした。それは人々と共に生きていく為の制度”が整ったと言う事でした。

 現代の社会も、国家も、”立法、行政、司法”によって成り立っています。この”裁判制度は、容疑者の人権を重んじる所から生まれた”ものです…”人権意識と十戒は、1人の人を愛し重んじる神の愛から与えられた”のです。

 裁判に於ける証人の真実な証言は、無実の罪の容疑を晴らしますが、偽証は、冤罪を着せ、場合によっては死刑にすらしてしまうのです。ですから、”十戒を通して、神は偽証を重大な罪とする”と言うのです。

 T列王記21章に、こんな実例があります…「サマリヤの王アハブと、妻のイゼベルは、共に悪名高い人でした。アハブ王の宮殿の隣にぶどう畑がありました。持ち主の名はナポデと言いました。王は、そのナポデの畑を欲しくなり買おうとしましたが、ナポテに断われたのです。落胆し嘆く王の姿を見ていた妻イザベルは、策略を巡らせて、二人の偽証人を立てて、「ナポテが神と王を呪っていた」と嘘の証言をさせて、ナポテを死刑にしたのでした。しかし、”神は預言者エリヤを立て、そのアハブ王を厳しく裁かれた”のでした。

 ここで、そんな”偽証の本質”を考えてみます…それは、”自分の証言が、神を悲しませていると分かっていながら、自分の利益の為に、嘘をついて平気でいる心”です。そして、”この罪は、人間の本質に深く〜根を下ろしている”ので、”イスラエルは歴史の中で、偽証の罪を繰り返し犯し続けて来た”のでした。

 その”頂点がイエス・キリストの裁判”でした。”権力者が、主イエスに嫉妬し、自分達の地位と権力を守る為に、偽証人を立て、主イエスを十字架で処刑した”のでした。

 ここで、”私共の中にもある権力”に思いを向けたいと思います…”家庭に於いて、地域で、会社や教会で、私共にも権力が与えられている”のです。”それらが神から託されている”事を忘れますと、自分の為に偽証(私物化)しかねないのです。ですから、”私共は、礼拝毎に十戒を唱えて、神を畏れる心を取り戻している”のです。

 ”教理集には、聖書全体から、この第九戒を解釈し、偽証の罪は、裁判だけでなく、悪口をもそこに入れている”のです。何故なら、”確かな証拠もない、事実を歪めた悪口は、人の心を傷つけ、名誉や財産さえ奪ってしまう罪だから”です。

 それゆえ”悪魔は人々を悪口へと誘惑する”のです。”この悪魔の罠は、誰もが簡単にはまってしまうので、罠にはまった人は堕落してしまう”のです…それゆえ、この「偽証の罪」は、”神の重い怒りを避ける事が出来ないと十戒は語る”のです…現代でも、”誹謗中傷は、偽証罪や、名誉毀損罪”なのです。
 新約聖書になりますと律法は愛の光で解釈される筈ですが、ヤコブの手紙では更に厳しい言葉となっているのです。

 ヤコブ書3章8〜10節「…舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私達は舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟達、このような事があってはなりません。」

 此処に、”舌を制する事の出来ない人間の姿”が書かれています。手紙を書いたヤコブ自身の悲しみがこもった言葉です。預言者イザヤも、そんな自分に悲しみました。私もそうです。

 「舌を制御しなさい」という言葉は”厳しい言葉”です…これは、偽証や悪口に留まらず、”正論をも含むから”です…というのは、”人はしばしば正論や御言葉で人を裁き、人を傷つけ、人を刺し、人の心を殺してしまうから”です。

 しばしば「つい言ってしまった」という言葉を聞きます。しかし多くの場合、”そこに本音がある”のです…”本音には、死をもたらす毒と、人への呪いがある”のです…それは、”主イエスを第一にせず、自分を第一にして、人を妬み、人を退け、人を裁く心から出て来る言葉”だからです。ヤコブは、”そんな言葉が、神を賛美しているクリスチャンの舌からも出て来る”と言うのです。

 では、”どうしたら偽証の罪に勝利できる”のでしょうか?…エフェソ人への手紙4章29〜30節に「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません…」とあります。

 ここにある「悪い言葉」と言うのは、ある翻訳では、「腐った言葉」となっています。”心の主人の座に、主イエスがいないと言葉が腐ってくる”と言うのです…”そのような人の言葉は、神の恵みを伝える事が出来ず、隣人の徳を高める事が出来ない”と言うのです…そして、そんな言葉は、”聖霊を悲しませる”のです。

 反対を考えると、”聖霊に喜ばれる言葉が出て来る心が分かり”ます。ガラテヤ2:19-20に「我もはや生くるにあらず。キリスト我が内に生くるなり」とあります…この御言葉は、”心の中の主人の座をキリストに明け渡す事を指している”のです。

 ”イエス・キリストは偽証の罪によって十字架に架けられた御方です。誰よりも、偽証の罪の重さと、その残酷さを知っておられる御方”なのです。ですから、”このキリストを心に迎えるなら、この偽証の罪を忌み嫌う様になるのです。もしくは、自分の内にある、偽証の罪への葛藤が生まれる”のです。

 今朝、共に、”私共が、心にキリストを主人としてお迎えして、私共の言葉が、キリストのお心を映し出す者として下さい”と祈りましょう。