妬みによる批判

       民数記12:1〜16.Tペトロ5:5.2007.8/26

民数記12章1〜16節
12:1 ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしている事で彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言った。
12:2 彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」主はこれを聞かれた。
12:3 モーセという人はこの地上の誰にもまさって謙遜であった。
12:4 主は直ちにモーセとアロンとミリアムに言われた。「あなた達は三人とも、臨在の幕屋の前に出よ。」彼ら三人はそこに出た。 12:5 主は雲の柱のうちにあって降り、幕屋の入り口に立ち、「アロン、ミリアム」と呼ばれた。二人が進み出ると、 12:6 主はこう言われた。「聞け、私の言葉を。あなた達の間に預言者がいれば、主なる私は幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。
12:7 私の僕モーセはそうではない。彼は私の家の者すべてに信頼されている。
12:8 口から口へ、私は彼と語り合う、あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなた達は何故、畏れもせず、私の僕モーセを非難するのか。」
12:9 主は、彼らに対して憤り、去って行かれ、 12:10 雲は幕屋を離れた。その時、見よ、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。アロンはミリアムの方を振り向いた。見よ、彼女は重い皮膚病にかかっていた。
12:11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。どうか、私達が愚かにも犯した罪の罰を私達に負わせないでください。 12:12 どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来た死者のようにしないでください。」 12:13 モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」
12:14 しかし主は、モーセに言われた。「父親が彼女の顔に唾したとしても、彼女は七日の間恥じて身を慎むではないか。ミリアムを七日の間宿営の外に隔離しなさい。その後、彼女は宿営に戻ることができる。」 12:15 ミリアムは宿営の外に七日の間隔離された。民は、彼女が戻るまで出発しなかった。
12:16 その後、民はハツェロトを出発し、パランの荒れ野に宿営した。

Tペトロ5章5節
5:5 同じように、若い人達、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。何故なら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。

ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


      
       妬みによる批判

            民数記12:1〜16.Tペトロ5:5.2007.8/26

 今朝から、出エジプト記の平行記事が記されている民数記から神の言に聴いて参ります。今朝、共に学んで参りますのは、民が金の子牛の像を拝んだ出来事に続く物語です。この物語は、”モーセの15才年上の姉ミリアムと、3才年上の兄アロンによる、モーセ批判の物語”です。

 ”モーセ批判の一つ目”は、”モーセの妻に関するもの”でした。それは、”モーセがクシュの女を妻としていた事への批判”でした。彼の妻は出エジプト記21章によれば、”ミデヤン人チッポラ”でした。クシュ人は、ギリシャ語七十人訳聖書によれば、”エチオピア付近の民族で肌の色が黒かった”と言われます。ハバクク書三章7節では、ミデヤンとクシュが並記されている事から、どうやら、この”クシュの女”と言うのは、”チッポラ”の事を言っているようです。

 しかし、”モーセがチッポラと結婚した”のは、モーセが指導者として召される前の事でしたので、モーセに批判される謂われはなく、いわば因縁をつけられたのでした。

 また、この「非難した」と言う動詞は、”三人称女性単数形”である事や、後に、”主に裁かれて、重い皮膚病になるのがミリアムだけ”である事から、”この批判はミリアム個人によるものだった”と思われます。

 ”モ−セ批判の二つ目”は、「主はモーセによってのみ語られるのか?」と言う事でした。”兄アロンはエジプトで、モーセに語られた主の言葉を代弁者としてファラオに語っていた人”です。また”姉ミリアムは、イスラエルの民が紅海の海の底を渡ってエジプト軍から救われた時、女預言者として民の賛美をリードした人”でした。それゆえ、”二人とも預言者として、人々に一目置かれていた”のです…そして、そうした”立場や地位が、やがて二人に高ぶりを与え”たのでした。


 「主は、我々によっても語られるのではないのか」との思いが、二人の心に沸いてきて、それが、”やがて不満として噴出した”のでした。

 やがて、”主なる神のモーセを弁明した言葉”が、”2つ目の批判”「主は、我々によっても語られるのではないのか」に対するものだけだった事から、”ミリアムとアロンのモーセ批判の本音が、主の言葉を語る権威が自分達にも与えられないと言う嫉妬にあった事”が分かります。

 民数記12章2節に、”「主はこれを聞かれた」とあります。”二人のモーセへの批判を聴いておられた主は、突然、モーセとアロンとミリアムを会見の幕屋に呼びよせられた”のでした。そして、”モーセの為に弁明を始められた”のでした。3節にあるように、「彼は地上の誰にも勝って謙遜(口語訳は柔和)であった」と言われたのです。

 事実、”モーセは争い事とは一切無縁な人”でした。確かに、ここでも”モーセは、ミリアムとアロンの批判に一言も答えていない”のです。”その沈黙はモーセの器の大きさ”と、”「主が、全てをご覧になっておられる」と言う事に委ねているモ-セの信仰を示すもの”でありました。

 ”ミリアムとアロンを呼び寄せられた主”は、最初に、”預言者について語られ”ました…「あなた達の内に預言者がいれば、私は夢によって語る…しかし、あなた方の内に預言者はいない」と言う言葉でした…神は更に、”モーセがどんな預言者であるかを語られた”のです。「彼(モーセ)は、私の家の者すべてに信頼されている」…これは、”忠実な者”という意味の言葉です。


 主はモーセの事を、「モーセこそ、忠実で信頼できる預言者だから、私は主の全家(イスラエルの民)の事を全て委ねている。それゆえ、私(神)は、モーセとだけは、口から口へ直接語り合い、預言者と語るように夢や幻を使わない」と言われたのでした。また、ここには、”「彼(モーセ)は、主(神のお姿)を仰ぎ見る」ともあります。これも、主とモーセとの親しさを強調する言葉”です。

 出エジプト33章11節では、”主の後ろ姿を見る事を許されただけ”でした…”十字架以前は、罪ある人が聖い神を見るなら、立ち所に滅ぼされてしまったので、後ろ姿を見る事を許されただけでも大変な事”でした。けれども、”神は、モーセの忠実さ、真実さゆえに、モーセを深く信頼するようになり、神のお姿を見る事を許され、口から口へと語り合う特別な存在へとなっていた”のでした。

 それゆえ神は、”主に選ばれ、油注がれ、神の権威を授けられたモーセに対して、神をも恐れずに非難する、アロンとミリアムを審かれる”のです。これは、私共も心に留めるべき事です…それは、ミリアムとアロンの、”モーセヘの非難は、主なる神への非難であった”という事です。そして、”神は、それを聴いておられる”という事です。

 神は、アロンとミリアムに、モーセの為の弁明を語られた後、「彼らに向かって怒り、そして去られた」のでした。”アロンとミリアムは主なる神の御臨在を失ってしまった”のでした。その時、”主の刑罰が下った”のです。ミリアムは重い皮膚病にかかり全身が雪のように白くなってしまったのでした。”それを見ていたアロンは、次は自分の番だと全身が恐怖に貫かれた”のでした。

 ”アロンは金の子牛を造った時に悔い改めをしていませんでした。それゆえ、此処でもまた罪を繰り返した”のです。しかし、アロンは、此処で”罪を認め、そして弟モーセに対して、「わが主よ」と、モーセの内にある神の権威を認め、執り成しの祈りを願った”のでした。此処に、”アロンの変化=悔い改めの実”を認める事が出来ます…”悔い改めによって、霊の世界が分かるように変えられた”のでした。

 ”モーセはミリアムの癒しの為に執り成しの祈りを献げました”のです…”モーセが言葉を発したのは、この章ではこの一句だけ”なのです。しかも、”彼を批判した姉の為の祈りの言葉”でした。

 ”モーセにとってミリアムからの批判は、どんな痛みであったろう”と思います。と同時に、そんな”ミリアムは愛する姉でもあった”のです。”ミリアムは、モーセが赤ちゃんの時、ナイル川に流されたモーセの後を追い、モーセを拾い上げたファラオの娘に、乳母として、実の母を紹介した人”でした。

 また”出エジプトのリーダーとして孤独だった、モーセの良き理解者であり、助け手でもあった”のです。主なる神は、その”モーセの祈りを聴き入れ、ミリアムヘの裁きを減刑した”のでした。”顔に唾をかけ(癒しを意味する行為)て、宿営の外に七日間隔離させた”のでした。その間にミリアムの皮膚病が癒され、民も出発を延期し、彼女の解放の時を待ったのです。そんな”彼女が指導者として認められていた証拠”だと思われます。

 Tペトロ5:5に「…皆互いに謙遜を身に着けなさい。何故なら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」とあります…”ミリアムとアロンは、砕かれて、自分達は、決してモーセに代わる存在ではない事を知る必要があり”ました。けれども”主に高慢を指摘され、罪を悔い改めた時、2人は主によって高くされた”のです。

 ”教会もお互いに、謙遜に主に仕える所”です。”それぞれが、主の身体の各器官だから”です…そこには、上下が無いのです。ただ、その神の召しに答えて、自分に与えられた使命に対して忠実に歩む姿”こそが大事なのです。それは、先週、千葉の地に行かれたU兄が、何時も後ろ姿で教えて下さっていた事でもあります…また、”それこそが主が私共に求められる事、私共がキリストの教会(キリストのお躰)となる道”なのです。