「とりなしの祈り」

    出エジプト記32章1〜20節. ロ−マの信徒への手紙8章34節.2007. 8/19

32:1-3 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、32:2 アロンは彼らに言った。「あなた達の妻、息子、娘らが着けている金の耳輪を外し、私の所に持って来なさい。」
32:3 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンの所に持って来た。
32:4-5 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。
32:6 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし立っては戯れた。
32:7-10 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、32:8 早くも私が命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、生け贄を献げて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」32:9 主は更にモーセに言われた。「私はこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。32:10 今は、私を引き止めるな。私の怒りは彼らに対して燃え上がっている。私は彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」
32:11-12 モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。32:12 どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くす為に導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。
32:13 -14どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『私はあなた達の子孫を天の星のように増やし、私が与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」32:14 主は御自身の民に降す、と告げられた災いを思い直された。
32:15 モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。
32:16-20 その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。
ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、32:18 モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも、敗戦の叫び声でもない。私が聞くのは歌をうたう声だ。」32:19 宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山の麓で砕いた。32:20 そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。


ロ−マ8:34「誰が私達を罪に定める事が出来ましょう〜キリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達の為に執り成してくださるのです」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


      
       「とりなしの祈り」

    出エジプト記32章1〜20節. ロ−マの信徒への手紙8章34節.2007. 8/19

 今朝は共に、出エジプト記の32章から神の言に聴いて参ります。この箇所は、モ−セがシナイ山で、神から十戒を頂いていた時の出来事です。モーセが、そのシナイ山の頂きで40日40夜、神の御前に立っていた時、山の麓では大変な出来事が起こっていた”のでした。

 モ−セが、なかなか山から降りて来ないのに不安を募らせた民は、モ−セの兄アロンの下に集って来て、「我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と懇願したのでした。

 今の様に携帯電話で安否を確認出来なかったとはいえ、「目に見える神が欲しい」というのは、”イスラエルの民の信仰の未熟さを露呈するもの”でした。アロンは、そんな民衆の圧力に負けて、民に、”金の指輪を持って来る様に命じ、その金を集め、”のみ”で”若い雄牛の像の型を造り、鋳て偶像を造った”のでした。この”アロンの行いも、信仰の指導者としての弱さを露呈していた”のです。

 ”子牛は、エジプトに於いては神々の一つ”でした…”民は、その子牛の像にひれ伏し生贄を献げて、「これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と叫んだ”のです…私は、ここにある「神々」と言う言葉に引っかかりを覚えます。

 確かに、この時、”イスラエルの民は、真の生ける神を拝み、酬恩祭の生け贄を献げていた筈”でした…なのに、”この礼拝の中に、偶像礼拝の影響が見え隠れする”からです…翌日、”民は、この金の子牛の像の前で、「座っては飲み、食べて大騒ぎをし、更に、戯れた」のでした…それは、”古代メソポタニア地方の豊作と子孫繁栄を祈る偶像礼拝の行為で、「性的に乱れた行為」を指している”のです。

 人間は忘れる生き物です。ある意味で忘れる事が出来るのは恵みだと思います。しかし、”神の恵み”を忘れてしまってはいけません…しかし,”聖書の歴史を見ると、悲しいかな、人間は神を忘れる事を繰り返している”のです。

 この時、”民は、シナイ山の麓で神の御声を聞きたばかりであり、十戒を神から頂いて下山してくるモーセを待ち望んでいた筈”でした。にも拘わらず、”民は神をけろりと忘れた”のでした。”民は、今から契約しようとしていた、十戒の第一戒、第二戒、第七戒、第九戒を既に破っていた”のでした。

 こうした民の背信行為を、おそらく神は膝の力が抜けるような思いでご覧になられていたのでしょう。それゆえ神は烈火の如く怒られて、こう言われたのです。

「私はこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、私を引き止めるな。私の怒りは彼らに対して燃え上がっている。私は彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」。

 ここにある、”「頑なな民」と言うのは、口語訳では「うなじのこわい」と訳されている言葉”です。元々「手綱を引っ張った時に、うなじを固くして逆らう。御しにくい牛や馬」を指す言葉なのです…神は、この民に対して、「私は、アブラハムの子孫であるこの民を滅ぼし、代わりにモ−セを祝福し、モーセ。あなたの子孫を新たな神の民とする」と言われたのでした。それを聴いた”モ−セは必死になって民の為に執りなした”のです。

 モーセは出エジプト記32章11〜13節、「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くす為に導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民に降す災いを思い直して下さい。

 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエル(ヤコブ)を思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『私はあなた達の子孫を天の星のように増やし、私が与えると約束したこの土地を尽くあなた達の子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか」

 これがモ−セの執り成しの祈りでした。この”モーセの必死な祈り”によって、”全知全能なる神はお心を変えられ、怒りを下す事を思い留まられた”のでした。

 しかし、安堵してシナイ山から降りて来たモ−セが見たものは、”金の子牛の前に、民が淫らな行為にふける民の想像を絶する光景”だったのです…それを見て、今度は、今まで執り成していたモ−セの怒りが吹き上がり、神から与えられたばかりの「十戒が刻まれた石の板」を投げ砕いてしまった”のでした…”モーセ自ら、イスラエルを神の民とするという契約を破棄した”のでした。

 ”しかし神は、そんな民の堕落の様を御存知だったのです。その上でモーセの執り成しの祈りを聴かれたのでした。彼等は、それゆえ神の民であり続ける道が残された”のです…しかし、”十字架がまだ無かった旧約聖書の時代は、審きを受ける事も必要”だったのです。

 そこで、”最初にモーセは民に罪を示し”ました…”金の子牛の像を砕き、水に溶かして飲ませた”のです。”民は、その苦みを通して罪の苦さを知った”のでした。

 ”2番目に、兄アロンの罪を問い”ました。しかし、”アロンは嘘をついて逃れた”のでした。こうして”アロンは、神の臨在と共に歩む、唯一つの道である、罪の悔い改めを放棄した”のでした。モーセは、この時は、アロンの罪を、見逃しましたが、”その結果、アロンの問題点は後に残った”のでした。

 ”3番目に、民を裁いた”のです。”モーセは、不信仰に陥らなかったレビ人(主につく者の意味)を呼び寄せて、金の子牛を拝んだ3千人を処刑させた”のでした。こうして”民は罪を知り、罪を悔い改め審きを受けました。今度はモーセの出番です。モーセは再び、神の祝福を求めてシナイ山に登った”のでした。

 ”再度、神の御前に出たモーセ”は、「自分の名が命の書から消されても良いから、お願いですからもう一度、民に祝福を与えて下さい。イスラエルを神の民として下さいと祈り求めた」のです…しかし”神は、再び民が不信仰に陥いる事を案じて、私(神)の代わりに、天使を遣わす”と言われたのでした。

 しかし、”モーセは、そんな神に、にじり寄る様にして、執り成しの祈りを、祈りに祈った”のでした。この祈りを聴かれた神は、再度折れて、「私(私の顔)が共に行く」と言われた”のでした…これは、”神の御臨在の復活宣言でした…こうして、イスラエルの民は、神の民として復活した”のでした。

 この時の事を、詩篇106篇23節はこう記しています「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた」…正に、”モーセは民の破れを担って(罪を負って)神の御前に立った”のでした。

 ここで今、”私共も、主イエスの執りなしの祈りの中にある事”を覚えたいと思います。ロ−マ8:34「誰が私達を罪に定める事が出来ましょう〜キリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達の為に執り成して下さるのです」。

 私共が祈りの最後に、「主イエスの御名によって祈ります。アーメン」と祈るのは、”主イエスの「執り成し」に委ねている言葉”なのです…主は、今も、天で、神の右の座で、御自身が十字架で流された血潮をもって、神に私共の為に必死で執り成して下さっている”のです。

 この朝、”私共は共に、執り成し手である主イエスを見上げ、「主イエスよ、私の為執り成して下さい。我らの為執り成して下さい。そして自分をも執りなしの祈り手として下さい」と祈りたい”と思います。