「貪りの罪」…十戒:第十戒…
出エジプト記20章17節
20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
ガラテヤ人への手紙2章19〜20節
「私は神に対して生きる為に、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」
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「貪りの罪」…十戒:第十戒…
出エジプト記20章17節.2007年8/12
長く十戒より説教して参りましたが、今朝は、その最後の学びです。この”第十の戒め”は、「隣人の家を欲してはならない」です…口語訳では「貪ってはならない」と訳されている御言葉です。ここには、”貪りの罪の内容”が具体的に記されています。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろば等、隣人の物を一切欲してはならない」。
人は物を所有しなければ生きて行く事が出来ません。元々”物欲は悪いものではない”のです。しかし、”人が罪により堕落した時から、物欲は、格好のサタンの餌食”となってしまったのです。
”第八戒”に、「盗んではならない」とありました…それは、「人(奴隷)を盗んではならない」という事でした。今風に解釈すれば、「自分の利益の為、人を利用してはならない。人権を踏みにじってはならない」と言う事でした。
一方、この”第十戒”の「隣人の家を欲して(貪って)はならない」と言うのは、”「物を盗んではならない」と言う戒め”なのです…この”貪りの罪は、自分でコントロールが難しい、心の中に芽生えてくる罪の芽”なのです。
主イエスが語られた、”山上の説教は、十字架の愛の光で捉え直した十戒”と言えるかも知れません。主イエスは、そこで「神が完全であるように、あなた方も完全でありなさい」と言われたのです。しかし、神の掟を守って聖く生きようと志した者は皆、”自分の力では、小さな戒めの一つさえも、完全に守る事が出来ない事を知っている”と思います。
「完全でありなさい」と言う主イエスのお言葉が厳しく聴こえます…しかし、これは決して厳しいお言葉ではないのです。”クリスチャンは自由”なのです…”人がキリストを心にお迎えするなら、キリストの愛による自由によって律法を全う出来る”からです。
”キリストの愛に生きる者は、隣人から貪る者から、隣人に与える者へと変えられる”のです。ですから、主イエスが「完全でありなさい」と言われたのは、「キリストの愛を宿す事を心がける事において完全になりなさい」と言う事だったのです。
”クリスチャンは、神の言に働かれる聖霊によって、自分の罪深さを、深く、更に深く知らされて行く”のです。それだけではありません。”クリスチャンには恵みが備えられている”のです…”神の赦しが与えられる”のです。また、その事によってキリストの御臨在が、いよいよ清かにされる”のです。それ故、”クリスチャンにとって、聖霊による悔い改めは慕い求めるものとなる”のです。
さて、ここで”欲する(貪る)という御言葉について学びたい”と思います。
旧約聖書を書いているヘブル語では、必ずしも、日本語のように悪い意味で用いられている訳ではありません。たとえば、詩篇19篇10節には、「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく…」とあります。
この”「慕わしい」という御言葉にも、「貪る」と言う言葉が使われている”のです。”お金を貪るのは貪欲の罪”かも知れませんが、ここで、”貪り慕い求めているのは、神による罪の赦し”なのです…”聖なる貪り”です。”クリスチャンの心から、この聖なる貪り=(罪の赦しを求める思い。また、それによる神の臨在(愛の支配)を求める思い)が無くなっているとしたら、信仰の祭壇が崩れている”と思うべきなのです。
"自分が第一、神が第二という心には、神と隣人に対して私物化が生まれる”のです…”全てを愛によってでなく、自分にとって役立つものか、そうでないかで見るようになってしまう”のです。それゆえ使徒パウロも、エフェソの手紙の5章5節で「全て…貪欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと、神との国を受け継ぐ事はできません」と迄言ったのでした。”貪欲の罪は、隣人を傷つけるだけでなく、その人自身を神の愛の支配を拒否する偶像礼拝者にする”からなのでした。
先ほど、”貪りの罪は、心の中に芽生えてくる罪の芽”と申しましたが、”聖書は、その歴史を記しています…最初の人間アダムとエバは、「神のようになろう」という貪りの罪によって、神の戒めを破って、善悪を知る木の実を食べて、全人類の堕落を招いてしまった”のでした。そして、”その子カインも、弟アベルが神に祝福された事に嫉妬し、その神の祝福を貪り弟アベルを殺した”のでした。”罪の街ソドムとゴモラも貪欲の罪の為に滅んだ”のです。
このように、”聖書が記す人類の歴史は、貪欲は罪を生み出す芽であると物語っている”のです。”神殿でさえ貪欲の罪に支配され、商売の巣となってしまった”のでした…それを”怒られた主イエスは、縄で鞭を造り商売人達を追い払われ”たのでした。また,”主イエス御自身、自分の名声と権力を守ろうとした、宗教家と政治家達の貪りによって十字架に架けられた”のでした。
反対に、”主イエスに従った人々は、自分の所有物を捨てた人々”でした。”弟子達と、主と弟子達のお世話しながら歩いた女性達は、全てを捨てて主に従ったゆえに弟子とされた”のでした。”主に家の客となって頂いた取税人ザアカイ”もそうでした。”ザアカイは、主イエスの愛の前に、それまで自分をとりこにしていた貪欲の罪に気づいて、悔い改めによって貪りの罪から解放された”のでした。そして、「これから何倍にもして被害者達に償います」と約束した”のです。
一方、”主イエスに救いを求めてやって来た、品行方正な富める青年”がおりました。”キリストは、「あなたの財産を貧しい人に施しなさい」と厳しく問われたのでした…キリストが、この青年の内に、自力で救いを得ようとする貪欲の罪を見て取ったゆえに、罪に気づかせ、自力では救いに預かれない事を教えられる為でした…富める青年は、そうする事が出来ず、悲しみつつ主の御前から立ち去った”のでした。
ではどうしたら、”私共は貪りの罪に勝利出来るのでしょうか?…それはキリストの愛を心に宿す事に於いて”であります。あの富める青年のように、”人の頑張りでは出来ない”のです…”隣人を見る時、その隣人の為に、十字架に架かられたキリストの愛を見るのです…キリストの愛を宿す事によって、人は貪りの罪に勝利出来るようになる”のです。
”この事は、今まで学んで参りました、十の戒め全てに言える事”です…それゆえ、”その為に、クリスチャンは、悔い改めて主イエスの御臨在に生きる”のです。ガラテヤ人への手紙2章19〜20節「私は神に対して生きる為に…私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」
”私共は、どんなに欠けがあっても良い”のです。ただ”悔い改めて、古き人(罪に支配されている肉の人)を、キリストと共に十字架につける”のです。そうすれば、”瞬間的に、霊の人としてキリストと共に甦り、主の愛を心に宿して十戒を全うしていく歩みをスタート出来る”のです。