「盗んではならない」…十戒:第八戒 …
エジプト記20章15節
「盗んではならない」
マタイによる福音書7章12節
「何事でも人々からして欲しいと望む事は、人々にもその通りにせよ。これが律法であり預言者である」
エフェソ人への手紙4章28節
「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」
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(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
「盗んではならない」十戒:第八戒
出エジプト記20章15節.2007.7/29
今朝共に学んで参ります。神の言である十戒の第八戒は、「盗んではならない」です。常識的な事ですが守られてこなかった戒めでもありました。
思えば、”第一の戒め”、「真の神だけを神として尊びなさい」…この”神に対する、人間の最も基本的な戒めでさえ守られて来なかった”のです。
食肉偽造事件の会社は自己破産したそうです…不正が見つかった社長は消え入らんばかりに恥じ入っていました。見ていて「ならば初めから不正をしなければ良かったのに。不正がばれる事を考えなかったのだろうか?」と思いました。
しかし、私共も例外ではありません…”人間には、悪いと分かっている事をしてしまう弱さがあるから”です…ですから、”十戒と言う神の言は、信仰を点検するもの”として必要なのです。
今朝学んでいる、第八戒の盗んではならない」を、聖書学者は、「物を盗む事でなく、人間を盗む事を禁じたものである」と言います。”第十戒の「隣人の家の物を貪ってはならない」が物を盗む事を指していて、第八戒は「人を盗む事を指している」と言う”のです。具体的に言うと、「奴隷を盗む」という事なのです。
”十戒の冒頭”に、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とありました。これは、”神の救済宣言”です。これに続いて、”神は十戒を与えられた”のでした。
ですから、これは、”エジプトの地で奴隷だった者達を、神である私が自由にした。だから、私の民から再び自由を奪ってはならない”という神の思いがこもった御言葉なのです。
これは、”新しい神の民であるクリスチャンに通じる事です。クリスチャンは、十字架によって罪の奴隷から解放された者”です。ですから、”クリスチャンは、再び罪の奴隷となってはならない。クリスチャンの隣人をも罪の奴隷へと誘惑してはならない”と言う風に聴くべきなのです。
”奴隷”と聴きますと、”ヨセフの物語”を思い出します。イスラエルの民の父祖であったヤコブには十二人の子供がありました。”ある時、父ヤコブが一番可愛がっていたヨセフが、兄達の妬みによって奴隷として売り飛ばされてしまった”のでした。
売られた先はエジプトでした。しかし、”ヨセフは、どんな時にも、神を畏れて、神の御目の前を歩む信仰を持っていました。それゆえ、大きな逆境を乗り越えて、神によって奴隷から総理大臣へと導かれた”のでした。
やがて、長い大飢饉が中近東一帯を襲いました。その時、ヨセフは大臣であったので、父ヤコブや、兄弟達をエジプトに呼び寄せて救う事が出来たのでした。ここに神の御計画があったのです。
それから400年が経った時、エジプトに渡ったイスラエル人の人数が多くなり、エジプト人の脅威となっていきました。そこでエジプト人は、イスラエルの民を奴隷としたのでした。そんなイスラエルを、神がエジプトの地から、救い出された事を記したのが出エジプト記なのです。
ですから、見方を変えれば、”イスラエルの民は、皆、弟ヨセフを売り飛ばした兄達の血を引いている”のです。ですから彼等は、”この「人を盗んではならない」という戒めを人事として聴く事は出来なかった”のでした。
人間は誰の所有物でもありません。”自分自身のもの”です。”十戒に先立つ神の解放宣言は、「あなたは私のものだ」と言う神の所有宣言だった”のです。
勿論、それは当時の奴隷制度への批判でもありました…奴隷制度は、今の日本にはありません。しかし、”隣人を自分の利益の為に利用しようとするなら、もしくは隣人の人権を軽んじる”なら、”隣人を盗んでいる”と言えるのです。
旧約聖書の時代、”神はイスラエルを、海の水を二つに分けて、奴隷の地から救い出して神の民とした事を重んじなさいと言われたのです。
後に神は、神の独り子イエスを十字架に架けて、罪の奴隷から救い出された新しい神の民(クリスチャン)を生み出されたのです。私共クリスチャンは、そんな自分自身と隣人をも尊びなさい”と言うのです。
新しい神の民であるクリスチャンは、十戒=(律法)を、新約聖書の十字架による赦しの光(愛の光)で読み直さなければなりません。この第八戒の「盗んではいけない」を「愛をもって〜しなさい」と読み換えてみたいと思います。
マタイによる福音書7章12節に、「何事でも人々からして欲しいと望む事は、人々にもその通りにせよ。これが律法であり預言者である」とあります。
この御言葉を土台にして読み直しますと、「あなたが盗まれるのが嫌なら、あなたは盗んではならない。更に言うなら、自分が困っているなら、同じように困っている隣人に与えなさい」と言う事なのです。
エフェソ人への手紙4章28節には、この事が、”具体的に愛の光”で言われています…「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」
ここから分かる事は、”健康や仕事が与えられている事は、それだけで、神に使命と期待が与えられている"と言う事なのです。”そのように生きる者を神は祝福し、健康と仕事を与え使命を託される”と言うのです。
新潟中越地震で被災した人々や、柏崎教会の為にも「神は今、私が何をする事を望まれているのか?」を祈って考えて献げて参りたいと思います。
十戒を礼拝で唱えて暫く経ちました。そして、こうして十戒を学んで参りまして思う事は、”十戒は決して慣れて唱えると言うものではなく、礼拝毎に自分の信仰を点検する為のものである”と言う事です。”悔い改めだけが、クリスチャンが聖霊に満たされて生きる唯一つの道だから”です。
最近、中国製品や食べ物の安全性が問題になっています。安全や信用よりも、生産性(利益中心主義)の体質がもたらしたものだと思います。中国だけではありません。
日本も、戦後、世界からエコノミックアニマルと呼ばれて参りました。人を騙しても押しのけても、貪欲に利益だけを求める日本人の姿に対する侮蔑を込めたニックネームです。私共は、そんな日本に、クリスチャンとして遣わされているのです。
私共、1人〜には、世界を変える何か特別な力は無いかもしれません。けれども、「あなたは盗んではいけない。自分が苦しくとも隣人に与えなさい」を真実に生きるなら、”私共の姿は、地の塩、世の光となる”のです。
「ああ、こんな世界、こんな価値観、こんな生き方があったのだ」と、”世の人々に気づいて頂く存在として神に用いられる”のです。”それこそが、クリスチャンに与えられている使命の一つ”なのです。