「姦淫の罪」…十戒:第七戒…

出エジプト記20章14節
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「姦淫の罪」十戒:第七戒
                   出エジプト記20章14節.2007.7/22

 先週の賛美大会中に、新潟の大地震の報を受け、皆で祈りました。新潟の柏崎聖光教会は会堂が全壊したそうです。今朝の礼拝をどの様に献げておられるか案じられます。しかし、牧師館は何とか守られたそうです。片桐牧師夫妻や、教会員は、聖会に出席されていたので無事だったそうです。けれども、今は皆さん大変な状況下にあるそうですので続いてお祈り下さい。

 避難中の被災者の方々を思う時、これから問われる事は、避難先での人間関係だと思います。柏崎原子力発電所も被災し、放射能漏れの報告が後手後手に廻り、地域住民との信頼関係にひびが入りました。正に、”人間関係の信頼関係は日々の誠実さの積み重ねによって築かれる”のです。

今朝は、”十戒の第七戒「姦淫してはならない」”に、共に耳を傾けて参ります。この”姦淫”は性的な罪の事です。”十戒は、神との関係の戒めと、人との関係の戒めに属します”。そして、この「姦淫してはならない」は、”人間関係の戒めの中で、「人を殺してはならない」に続いて出てくる大切な戒め”なのです。

 この「姦淫の罪」と言うのは、現代風に言いますと、「不倫」の事です。しかし深く学んで参りますと、”全ての人に向けられた戒め”でもある事が分かって参ります。”姦淫の罪は、サタンが全ての人に対して狙っているものであり、また、それは神を裏切る罪であり、夫婦関係を壊し、神との関係をも壊し、神の祝福を受けられなくするもの”なのです。

 しかし、旧約聖書では一夫多妻は当たり前の様です。信仰の父アブラハムでさえ、女奴隷ハガルとの間にイシマエルをもうけてしまいました。ダビデ王も女性関係では大きな失敗をしたのです。この第七戒ほど、ないがしろにされてきた戒めは無かったのです。

 文学や映画等では、しばしば、”禁じられた愛”が描かれます。そこに悲しさと魅力がある事は否定できません。社会もそうした愛を受容しつつあるように感じます。

では、”十戒の第七戒は時代遅れなのでしょうか?”…いいえ、そうではありません。”不倫の正体を直視”しますと、”不倫(姦淫)の罪の本質は、自分勝手な恋心を正当化し妻を捨てる事”だからです。”その罪が時代遅れになる事は無い”のです。

 ここで旧約聖書の最後にあるマラキ書の2章13〜15節をお読みします。「…あなた達は…泣きながら、叫びながら、涙をもって主の祭壇を覆っている。もはや、献げ物が見向きもされず、あなた達の手から受け入れられないからだ…それは、主が、あなたと、あなたの若い時の妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である…あなた達は、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。」

 最後にある「あなたの若い時の妻を裏切ってはならない」と言うのは、「妻が老いても浮気をしてはならない」と言う事です…何故なら、”聖書は、結婚は神を証人とした契約だから”と言うのです。

 新約聖書エフェソ人への手紙5章31節に「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人の者は一体となるべきである」とあります。結婚カウンセリングで必ず触れる箇所です…”夫婦だけが一つ心となる事が出来る、唯一の人間関係”であり、神と人とが一つになる事を暗示できる、唯一の人間関係が結婚”と言う事なのです。

 ですから、”旧約聖書の預言者達、マラキも、エゼキエルも、ホセアも皆、姦淫を神への裏切りの罪に例えた”のでした…それゆえ、”結婚の契約を軽んじる者と、神の民とされた神との契約を軽んじる者の礼拝は、神に受け入れられなくなる”と言うのです。

 神は”妻への愛”を次のように語ります。エフェソ人への手紙5章25節「夫達よ、キリストが教会を愛し、教会の為に御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」…”夫の妻への愛には責任があるのです…キリストが教会を愛して、十字架に架かられた様に妻を愛するという負いきれないような重い責任”です。

 何故、これほど重い責任が夫に与えられるのでしょうか?…それは、先にも申しました様に、”結婚だけが、神が罪人を神の民とした契約を暗示する契約だから”です…正に、”キリストは、その契約を結ぶ為に、十字架に架かられた”のでした。

 しかし、”この自己犠牲の愛の責任に対して、不誠実であろうとする者の、主イエスとの関係は、やがて破綻へと向かう”のです…やがて、”信仰の私物化が始まる”のです。

 私物化というのは、キリストが主人でなく、自分の欲や思いが主人となる事”です…たとえば”子供の私物化”です。”子供の命は神からの授かり物”です。しかし、”堕胎を自分の都合で考えたり、虐待をしたり、一家心中(子供を道連れにする)が起きてしまう”のです。”夫婦間に於いては不倫が起こる”からです。

 姦淫の罪を取り上げる時、避けて通れないのが、ヨハネによる福音書8章3節以下に出てくる、”姦淫の現場で捕らえられて主イエスの御前に連れて来られた女”の出来事です…当時、”姦淫の罪は死罪にあたる重罪”でした。

 この女を捕らえて、”主イエスの御前に連れてきた律法学者やファリサイ人は、固唾をのんで主イエスの審きを待ち”ました。主イエスが「死罪にしなさい」と言われたら、「日頃、愛と赦しを語っているイエスの教えは嘘っぱちだ」と批判できますし、主イエスが「赦しなさい」と言われたら、「律法に背いた偽予言者だ」と批判できるからです。この問いは、”主イエスを陥れるこの上ない罠だった”のでした。

 重ねて問い続ける人々に対して、”主イエスは何も答えられず、しゃがんで地面に何かを書き続けられた”のです…この”主イエスの沈黙は、自分で罪に気づきなさいと言う後ろ姿”だったのかも知れません。

 その後、主イエスはおもむろに顔を上げられて「あなた方の中で罪の無い者が、女に石を投げつけるが良い」と言われたのでした…その時、”その場は静寂に覆われました”。そして、その静寂を破るように、”年寄りから始まって、次々と人々が去って行った”のでした。これは、”年を重ねるほど姦淫の罪に対して胸を張れる人が少なくなって行く事を示している”のです。 

 ”主イエスは、神の御前に、姦淫の罪の重さを知っておられる唯一人のお方”でした。また、”この姦淫の罪を審く事の出来る唯一人のお方”でもありました。しかし、”主イエスはこの姦淫の女に、「私もあなたを罰しない」と言われた”のです。”やがて十字架で彼女の罪を負い、身代わりに神に審かれる事を決心されたがゆえの赦しのお言葉でした。

 おそらく主イエスが地面に書かれていた言葉も赦しのお言葉だった”と思います。”この主イエスの赦しの愛に支えられているからこそ、弱い私共も、「姦淫をしない」という志に立つ事が出来る”のです。そして、”その聖い歩み(主イエスの御臨在と共に歩む歩み)こそ、聖霊によって砕かれて、罪を悔い改めから始まる”のです。