「上に立てられた権威」…十戒:第五戒B…
出エジプト記20章12節
20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
ロ−マの信徒への手紙13章1節
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威は全て神によって立てられたものだからです」
「ハイデルベルクの信仰問答」
問104 「第五戒においては、神は、何をお望みなっておられますか?」
答 「私が、私の父、母、および私の上に立つ全ての人々に対して、一切の栄誉と愛と真実とを現し、自らを正しい服従を持って、全ての良い教えと罰とに服させ、彼等の過ちをもしのぶ事であります。何故ならば、神は彼等の手を通して、我々を支配する事を望んでおられるからであります」
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Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
「上に立てられた権威」…十戒:第五戒B…
出エジプト記20章12節.2007.7/1
今朝は、十戒の第五戒より3回目の学びになります。この「父母を敬え」という戒めは、”誰一人守りきる事の出来ない戒めであり、神を神として重んじる信仰と一体である事”を学んで参りました。
今朝は、この”第五戒を通し、「上に立てられた権威」について学んで第五戒の学びを終えたい”と思います。”教会は聖書の教えを整理した教理集”というものを作りました。それは、”聖書の教えを教育する為に、また教会を真のキリストの躰として形成する土台として使われて参り”ました。
有名な教理集の1つに、”ハイデルベルクの信仰問答”があります。
その、問104に「第五戒においては、神は、何をお望みなっておられますか?」と言うものがあります。
答えは、「私が、私の父、母、および私の上に立つ全ての人々に対して、一切の栄誉と愛と真実とを現し、自らを正しい服従を持って、全ての良い教えと罰とに服させ、彼等の過ちをもしのぶ事であります。何故ならば、神は彼等の手を通して、我々を支配する事を望んでおられるからであります」です。
この文章を読むと、”人は父母だけでなく、自分の上に立てられた全ての人々(権威)に従うべきである”と書かれている事に気づきます。しかも、”それは神の御心”と言うのです。
この”答え”は、新約聖書ロ−マの信徒への手紙13章1節「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威は全て神によって立てられたものだからです」を土台としています。
”教会は「父母を敬うべきである」という教えを、新約聖書の光を通して「神に立てられた全ての権威に従うべきである」と捉え直した”のでした。
シナイ山にて神から十戒を授かった頃の”イスラエルは部族社会で、”「父」という存在は、大部族の長を意味”しておりました。ですから、”教会が、「父」を、新約聖書の光で、「上立てられた権威」と置き換えて解釈した事は正しい”と思います。
所が第二次世界大戦後、「国家という権威に従いましょう」と言いにくくなってしまいました。”国家権力が戦争へと導いたから”です。今の北朝鮮にも国家権力の狂気を見る思いが致します。その結果、”権威アレルギーが世界的に蔓延”しました。父親の権威が喪失しているのは世界的現象だそうです。教師の権威も失墜し、身近で学級崩壊の話を聞くようになりました。
そうした中、”聖書は一貫して、「父母を敬いなさい」という”のです…”家庭でも社会でも教会でも、人間が共に生きる所では秩序が必要だから”です。
”社会の秩序を支えるのは、上に立てられた権威が必要”なのです。会社勤めをしますと、”上司の言う事を聞かなければなりません。部下に従って貰わなければ会社経営が成り立たない”のです。”どんな民主的で平等な社会でも、水平の関係だけでなく、上下という縦の関係があるのです。
そうした”縦の関係を、聖書は、神が立てられたものと肯定している”のです。ですから、尊敬して従える上司、尊敬できる国家の指導者を持つ人々は幸せだと思います。
”神は旧約聖書では、、「父母を敬いなさい(従いなさい)」と言われました。新約聖書では、”「全ての上に立てられている権威に従いなさい」と言われた”のです。
ただ、”やみくもに従いなさいと言っているのではない”のです。ハイデルベルク信仰問答を注意深く読みますと、「正しい服従を持って、全ての良い教えと罰とに服させ…」と書いているのです。”間違った教え(権威者の間違った導き)や、間違った服従もある”からです。
”旧約聖書の預言者達は、神の言をもって、世の権力者の間違いを指摘”しました。”主イエスも「カイザルのものはカイザルに、神の物は神に返しなさい」と言われ、政治的権力や宗教家の権力の用い方が神の御心と違うと批判された”のでした。
その後に生まれた、”キリストの教会も、世の塩として権力者の間違いを指摘し続けて来たのです。
教会自身が、十字軍や魔女裁判、免罪符など過ちを犯した時は、聖霊が聖書をもってその過ちを指摘し、聖書からそれを聴いた人々によって宗教改革して来た”のでした。
第二次世界大戦中、ヒットラーが「世にいる役に立たない者は皆殺しにせよ」という命令を出した時、社会福祉の町として知られたベーテルにある教会の指導者達が、「障害者を殺す前に自分達を殺せ」と言って、ヒットラーに対する不服従を貫いた事も知られています。
”こうした出来事が「正しく服従する」という事はどういう事かを指し示している”と思うのです。
最期に、ハイデルベルク信仰の問104にある最期の言葉を学びます…「彼等の過ちをもしのぶ事であります。何故ならば、神は彼等の手を通して、我々を支配する事を望んでおられるからであります」です。
”注意深く聴かなければ誤解してしまう所”です。「彼等の過ちを耐え忍びなさい」…ここに抵抗を感ずるのは、私だけではないと思います。この言葉は次の聖書の御言を土台としているのです。Tペトロ2章18節「召し使い達、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」です。
何故、「無慈悲な主人の過ちを忍耐して仕えなさい」と言うのでしょうか?…子どもの頃、黒人奴隷を主人公にした「アンクルトムの小屋」と言う本を読みました。トムは、良い主人や、悪い主人にも仕えましたが、何時も誠実なトムの人柄が、どんなご主人の心をも変えたという物語でした。
”間違いを批判する事は正しい事です。しかし、他者を批判する心は格好のサタンの住まいになる”のです。ですから、”先ず、自分の罪深さを正しく知り、自分が十字架で赦されている事を見つめつつ、聖い心で判断し批判しなさい”と言われるのです。
”無慈悲な主人を忍耐するという苦しみの中で、人は自分の中にも、無慈悲な主人と同じ罪がある事に気づく”のです…そこで、”自分の罪をも忍耐して受け入れて、十字架で赦して下さった主イエスの忍耐と愛とが本当に分かる”のです。そこでこそ、聖い心で批判する事が可能になるのです。
私共はともすれば、”自分を権威に服従させられている者”として考えます。けれども、子どもはやがて親になります。学校や会社では、1年経つ毎に、新入生や新入社員が入ってきます。”私共自身も権威を持つ者”である事に気づかなければなりません。だからこそ、”権威の恐ろしさを知り、権威は神から与えられたものと信じて正しく用いる事が必要”なのです。
”イエス・キリストは、宗教的権威者と政治的権威者達のねたみという罪によって十字架に架けられた”のです。”権威には、神の独り子を殺す程の力を持つ”のです。これが権威の持つ恐ろしさなのです。
信仰者は、”主イエスが「私は仕えられる為ではなく、仕える為に来た」と言われたように権威を正しく用いる事が出来る”のです。
最期に、”神が教会に立てられた権威”ついてお話します…”教会でこそ、神に立てられた権威に対する信仰が問われる”のです。
”神は教会に職制を与えられました。教会に牧師を立てたのです。また教会は長老(役員)を立てた”のです。どちらも神に立てられた権威なのです。”教会に生ずる問題の殆どは、教会員が、牧師や長老(役員)を信じ、重んじ、従う中で解決する”と聞いた事があります。
だからこそ”牧師と役員は、「自分達が神の御心に沿った教え(戒め)と罰によって、教会に正しい服従を求めているか?教会をキリストの躰として正しく形成しているか?」と問い続けるべき”なのです。
そのように、”権威を正しく用いる者、正しく権威に服従する者こそが、神を神として重んじている者”なのです。そして、その事こそが、”父母を敬いなさいといわれた神の御心”なのです。