「みだりに唱えてはならない神の名」 …十戒:第三戒…
出エジプト記20章7節
20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
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Society,Tokyo,1987,1988,1995
「みだりに唱えてはならない神の名」 …十戒:第三戒…
出エジプト記20章7節.2007年6月3日
今朝学ぶ、十戒の第三戒を学ぶ鍵の言葉は、「みだりに」です。そこで、この朝は、この言葉を通して、「主(神)の名をみだりに唱えてはならない」を学んで参ります。第二の戒めは、「刻んだ像を拝んではいけない」というものでした。
偶像の中には生ける神はおられないからです。ですから偶像を拝む事は虚しい礼拝なのです。続く第三の戒めは、”正しい神の名の唱え方の戒め”です。
”神の名を呼び求める礼拝には、神がおられるので、礼拝する者にも、神の名を正しく呼び求める姿勢が求められる”のです。”間違った呼び方というのは、間違った信仰の姿勢”です…”間違った信仰の姿勢で神を呼び求めるなら、祈りや礼拝が無意味になってしまうだけでなく、主に罰せられ滅びに至ってしまう”と迄言うのです。
「みだりに用いる」とは、「乱暴に用いる。軽々しく用いる」という事です。最近、”この戒めは、主の名の単なる乱用を禁じる戒めでなく、「主の名を何の役にも立たない仕方で呼んではならない」。もしくは、「主の名を無にしてしまう呼び方をしてはならない。更に言うなら、滅びに至る様な呼び方をしてはならない」と解釈”されています。”これは深刻な戒めだった”のです。”人の信仰の急所を突き、心深くにある罪に気づかせる問い”なのです。
さて、この”第三戒”には、”「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」と言う警告が付け加えられている事”を見逃してはなりません。
この”警告”は、この”第三戒の厳しさを気づかせ”ます。ですから、しかし、この”厳しさは「〜してはいけない」というものでなく、礼拝する者が、滅びずに永遠の命に至る信仰の姿勢を切々と訴えている愛”なのです。
では、どんな信仰の姿勢を訴えているのでしょうか?…それは、”神を畏れる事”です…しかし、それは「戒めを破るとバチがあたる」と恐れる事ではありません。神は、正しい者にも悪い者にも公平に太陽を昇らせて下さるお方だからです。バチをちらつかせて人を脅すような方ではないのです。
”神がバチを与えるお方であるなら、人は災いを招かない為に戒めを守る様になり”ます。事実ユダヤ人は、”神をバチをお与えになる神と誤解し、「神の名をみだらに口にしてはいけない」という戒めを恐れて守る内に、神の本当の呼び方が分からなくなった”と言うのは余りにも有名な話です。確かに、「神はどんな事でも見ておられる」と思う事は大切です。
”神は、永遠の命の門で、私共の罪を審かれるお方であり、侮る事が出来るお方ではありません”。しかし、”最期の最期まで、十字架の御血潮を持って、全ての者が悔い改めるように待っておられる愛のお方”なのです。ですから、”神を正しく畏れる事は、日々の生活でバチを恐れる事とは全く次元が違う”のです。
”神を怖がる事は不信仰”です。”正しい畏れは、神を信頼し敬い重んじる畏れ”です。”神を本当に信頼しているなら、人は神に近づいて行き、神の名を呼び求める筈だから”です…正に、”イエス・キリストの十字架は、正に罪の赦しによって、神と人を隔てていた垣根を打ち壊し、神との交わりを回復して下さったものだった”のでした。
旧約聖書の出エジプト20章24節をお読みします。「あなたは、私の為に土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上に献げなさい。私の名の唱えられる全ての場所において、私はあなたに臨み、あなたを祝福する」と神がモーセに言われた御言葉があります。
ここにあるように、「神の名が唱えられる場所に、神は臨まれて祝福される」のです…”私共の礼拝も、祈りも聖餐も洗礼も祝祷も、父(神)と子(キリスト)と聖霊の御名によってなされているからがあるから成り立っている”のです。
続いて、旧約聖書のT列王紀8章29節をお読みします。「そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが『私の名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕が献げる祈りを聞き届けて下さい」…これは、<ソロモンの献堂の祈り>と言われる所です…”神が御自身の御名を留めると言われた礼拝で、神の御名を正しく呼ばれる時、昼も夜も神の眼差しが注がれ、祈りが聴かれている”のです。
ヨハネによる福音書17章6節に主イエスの大祭司の祈りと呼ばれる重要な祈りが記されています。「世から選び出して私に与えて下さった人々に、私は御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました」…”主イエスが神の御名をあらわされた”という事は、”主イエスも神と言う事”なのです…”見えない神は、キリストを通して、御自身を顕された”のでした。
”神は御名を呼び求める者達を、キリストに与えられた”のです。それゆえ、”今、キリスト(主)の御名を呼ぶ事は、神を呼び求める事”なのです。
マタイによる福音書18章20節には「二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるのである」とあります。”人数の多い少ないに拘わらず、主イエスの御名を呼び求めて集まり、礼拝と祈りを献げる所に、主イエスも共におられる”です。
ソロモン王が神殿献堂の時に、「夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが『私の名をとどめる』と仰せになった所です」と祈った祈りが、”キリストの教会で、キリストの御名による礼拝と祈りにおいて、キリストの御臨在という実を結んだ”のです。今、私共は躰が熱くなるような神の祝福を体験している事を知って頂きたいのです。
誕生したての教会で、小さく無力な群れの中で使徒ペトロは、使徒言行録4章10節で「あなた方もイスラエルの民全体も知って頂きたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなた方が十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と、”一点の曇りも妥協もなく、キリストの教会は、キリストの御名によって立っていると宣言した”のでした。
”キリストの御名は、私共にも神の臨在による力を与えて下さっている”のです。もし、神のご臨在による力が自分の中に無いのならば、”神の御名を誤って用いている”のです。”尊い十字架を軽率に受け止めている”のです。”キリストの御名を畏れていない”のです。”十字架を重く受け止めて、主イエスに深く信頼して行くならば、人は必ず、神のご臨在の力に預かる事が出来る”のです。