「聖書が求める親の姿」…十戒:第五戒A…
出エジプト記20章12節
20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
コロサイ3章21節
父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」
エペソ人への手紙2章3〜5節
また、私達もみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――
エペソ人への手紙5章1節
5:1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
ecutive
Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
「聖書が求める親の姿」…十戒:第五戒A…
出エジプト記20章12節.2007年6/17
先週に続いて十戒:第五戒の「父母を敬いなさい」から学んで参ります。先週は、”子供が親を敬う事、敬えなくとも重んじると言う事が、神を信ずる者にとって真っ先に問われる事である”と学びました。今週は、同じ第五戒から、”子供に敬われるべき親の姿に”ついて学んで参ります。
何故、2週続けて第五戒「父と母を敬え」を学ぶかと申しますと、宗教改革者であり、プロテスタント教会の生みの親であるルターが、この「神が命じられた第五戒を守り切れた人は、聖人と呼ばれる」と言った程の戒めだからです。
使徒パウロは、「義人はいない。一人もいない」と言いましたが、”プロテスタント教会は、罪人である人間を聖人と呼ぶ事を認めません。ルターは最初に聖人思想を排斥した人”ですから、ルターは、「父母を敬う事を守りきっている人は一人もいない」と言いたかったのだと思います。”神を信じ、神を重んじている者の信仰は、父母を敬う重んじると言う、最も基本的で、最も深い人間関係に於いて現れるから”です。
現代は、親子の関係がギクシャクしていて、頻繁に事件が起きる時代です。親が子を教育する為に、わざわざ心理学を学ぶのはおかしい気がしますが、そうした学びが必要な時代になってしまったのかも知れません。
たとえば心理学を学びますと、その初歩に”父親と息子の関係”が出てきます。”父親と息子の間には根本的に憎悪の関係がある”と言うのです。”父は息子に乗り越えられるべき立場にあり、息子は父を敵と意識する事によって、乗り越えようと成長する”と言うのです。”母と娘の間は、父と息子の間のようではありませんが、そこにも複雑な問題が潜んでいる”のです。童話の原作などは、そうした事を題材にしている物が圧倒的に多いのです。家庭崩壊の中、多くの方が心を病んでいるのを思う時、人の心理を学んでおく必要を感じます。
しかし、親子関係を含めて、”こじれる人間関係の根には、必ず罪があるのを忘れてはなりません”。心理分析は、こじれた人間関係の原因を知る為には役立ちますが、”罪が赦される事無しに、真の意味での心の癒しや解決は無い”のです。
あるクリスチャンの精神科医は、「どうも、今、思春期になって心を病む子供を見ていると、親が手抜きをしたとしか考えられない」と言います。この”手抜き”というのは、子育てに時間をかけなかったと言うのではありません。ですから共稼ぎが悪いと言っているのではありません。”質的な事”です。
「子供を育てる事が如何に尊いかを知らずに育てている親」の事です。”子育ての意義や価値を見出せないまま、子育てに手間がとられる事に苦痛を感じながら子育をする…そんな親の心に、どれだけ子供達の心が傷ついているか”とこの精神科医は言っているのです。”子育てには信仰が求められる”のです…”困難な子育てを、神に委ねられている聖なる務めと信じる事が大切”なのです。
この第五戒「父母を敬いなさい」は、”子供に父母を敬う事を求め”ています。しかし、同時に”この戒めは、父母に子どもに敬われる姿をも求めている”のです。それは決して立派な親になりなさいという事ではありません。
コロサイ3章21節に「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」とあります。これは聖書が親に対して言う数少ない御言の一つです。子どもを「いらだたせる」と言うのは面白い言葉が使われています。「過大な要求をする」「間違った要求をする」と言う言葉です。
そして、そのような要求をすると子どもの心が「いじける」と言うのです。この言葉には「臆病になる。勇気が無くなる。心が萎縮する」という意味があります。妻を見ていると家族に仕える事を教えられます。自分が短気を起こした後などは自己嫌悪に陥ります。親としては耳が痛く語りづらい言葉です。
「勉強しなさい」を始め、過大な要求、間違った要求を子供に強いて、子どもをいじけさせ苛立たせてきた一人だと思うからです。けれども、子どもは、元来、楽な方、面白い方へと流れていくものです。親が注意しなければ誰も責任をとってくれません。
親だって「こうしなさい」と言いながら、子どもの姿を見て「自分は間違った事を言っていないだろうか?言い過ぎたんじゃないか?」と迷っているのです。また子どもが可愛そうと言う思いと戦っているのです…しかし親心ゆえ言わずにおれない…それが何故いけないのかと思います。
また子どもを苛立たせない親が一体どれだけいるだろうかと思います。
エフェソ6章4節に目を転じると「父親たち、子どもを怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」とあります…「子どもを怒らせてはなりません」と聴きますと、子どもが怒らないように機嫌をとらなければならないのかとも思います。
”そうではないのです”、続いて「主がしつけ諭されるように、育てなさい。」とあるからです。この「主が…」とあるのは、「主によって…」とか、「主の中で…」と言う意味の言葉です。「主イエスが、主イエスの中で子どもを育てて下さる事を信じて、親は、御言を諭すように子どもに語りなさい」と言うのです。
”諭す事と怒る事”とは違います。また”子どもを怒らせないというのは、怒らせないように機嫌をとる事でなく、愛をもって御言を諭す事”なのです。
”主イエスは、愛を持って十字架の死に至るまで仕えながら、弟子達の心を見つめ続けられたのです。時に諭しながら、時に本気で怒られた”のです…ですから”「親も、感情にまかせて怒ってはならない。その時には忍耐して祈り、それから愛と御言をもって怒りなさい」と聖書は言うのです…それが”御言をもって諭す”という事なのです。
そうするなら、子どもは、やがて、その訓戒が親の愛だと受け止めてくれる”と思うのです。”子どもに尊敬される親となるのは、立派な親になる事ではありません。子どもを怒らせないように機嫌をとる事でもありません。キリストの御言で諭す事に尽きる”のです。
口語訳エペソ2:3に、「生れながらの怒りの子であった」という御言があります。その”生まれながらの怒りの子”が、5節、「あなた方の救われたのは、恵みによるのである」とあります様に、”恵みによって救われ光の子になった”たのです。それゆえ”エフェソ書は「あなた方は、神の子どもであり、光の子である」と繰り返す”のです。
エペソ書の5章1節に、「こうして、あなたがたは、神に愛されている子どもとして、神にならう者になりなさい」とあります…「あなたは怒りの子だったが、十字架によって神の子、光の子に変えられて、今、神の愛の中にいるではないか?だから、その光で子育てを見直しなさい」というのです。”神の言に子どもを託す”のです。
”父であり、母である事は、神に託された聖なる使命と信じ、子どもと向かい合い、子どもの心に向かって御言を語り、子どもをキリストに委ねる”のです。”その姿こそ、やがて子どもに敬われる父母の姿”なのです。