「父と母を敬いなさい」…第五の戒め…

出エジプト記20章12節
20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

         
   
「父と母を敬いなさい」…第五の戒め…

                      出エジプト記20章12節.2007.6/17

 今朝は、十戒の第五戒から学んで参ります。これ迄の戒めは、”真の神を神として拝む戒め”でした。そして、”第五戒の戒めからは、真の神を拝む者が、人間同士の間で、どう生きたら良いか”が記されているのです。

 そして、その最初に教えられているのが、「あなたの父と母を敬え」という戒めなのです。 更に「父と母を敬わなければ、主が賜る地で長生きする事が出来ない」と言うのです。先ず、この御言を心に刻みながら学んで参りたいと思います。

 ある教会で、祈りの目標を、「健やかで成熟した判断力を持った説教の聴き手が育つように」とされたとお聞きしました。説教者の立場になって講壇に立った者は誰でも分かる事ですが、「毎日曜日に、忠実に教会に来られて決まった席に着かれて説教を聴いて下さる方がおられる。その信者の存在に説教者が支えられると言う経験」です。

 新居浜教会の高橋牧師が、葬儀の説教で涙ながらに「この方だけが礼拝の説教テ−プを借りて帰って聴いて下さっていた」と言われた言葉を忘れる事が出来ません。そうした方を天に送る事は、説教者にとっては半身がもぎ取られる様な痛みなのです。

 ”説教者を支え育てる聴き手の姿”というのは、頭で分析しながら、「ああ、良い説教だ」と聴く人の事ではありません。”説教の言葉を、神の言として真剣に受け止めて聴く姿勢”の事です。

 その様な説教の聴き手に成長するには時間がかかります。何故なら、”生活の中で起きて来る出来事や問題の中で、この生活の問題に対して、神はどのように語りかけて下さるか?…と聴く中でしか説教の聴き手は成長できないから”です。

 説教者も欠けある人間です。その”欠けある器に、今朝も神が油注がれて、神の言を託して下さったと信じて、真剣に聴く者が生活において御霊の実を実らせる”事が出来るのです。たとえば、今朝の御言で言うなら、”父母との生活が違って来る”のです。

 では、何故、”人間関係の最初の戒めが「父と母を敬え」”なのでしょうか?”生まれてきた以上は、みな誰かの子だから”です。”誰も免れる事が出来ない人間関係の基礎であり、一番信仰が問われる事だから”です。

 ”親は皆良い親ばかりではありません。非行少年少女の多くは、親に傷つけられ、心の底で親を恨んでいる”と言われます。”最も甘えが出、許す事が最も困難な親子関係に於いて、心を深く傷つけた親を敬えるか?私の人格を歪ませた親を許せるか?と信仰が問われるのは、実はとてつもなく厳しい事”なのです。

 ”もし、「父と母を敬いなさい」という戒めを、信仰をもって聴き、親を受け入れる決心をするなら、心の中にサタンの住居が無くなり、心が聖霊の住まいになる”のです。心の底が癒され生まれ変わって解放される経験をするのです…それゆえ聖書は、「父と母を敬う者は、主が賜る地で長生きする事が出来る」と言うのです。

 十戒を研究する学者は異口同音に、この”「父と母を敬いなさい」と言う戒めは、幼い子供に向けたものでなく、大人に向けた言葉である”と言います。 親から独立し、もう親に頼らなくとも良い、弱くなった親に、昔の恨みの仕返しが出来る、そんな大人に向かって、「父母を敬いなさい」と言っているのです。

 この「敬いなさい」と訳されている言葉は、「軽んじてならない」とも訳する事が出来ます。「もし親を敬えなくとも、親を重んじなさい」と言うのです。

 この関連で出エジプト記13章12〜15節を読んで参ります。
「初めに胎を開くものは全て、主に献げなければならない。あなたの家畜の初子の内、雄は全て主のものである…あなたの初子の内、男の子の場合は全て、贖わねばならない。将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねる時は、こう答えなさい。

『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオが頑なで、我々を去らせなかった為、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえ私は、初めに胎を開く雄を全て主に犠牲として献げ、また、自分の息子のうち初子は必ず贖うのである。』

 この”律法ゆえ、ユダヤ人は、長男の代わりに、神に小羊を献げて贖い”ました。”自分を贖う為に殺される小羊の姿を見ている子供は父に尋ね”ます。「お父さん、どうして小羊を殺すの?」と…。”そこで父は子供に、出エジプトという神の救いの出来事を話し、今、この小羊は、お前の罪を贖っているのだよ」と神が人を罪から救うとはどういう事なのかを話して聴かせた”のです。

 ”ユダヤ人の家庭に於いては、父親が子供に神を教え、出エジプトの救いの物語を伝え、罪というものは血をもって贖われなければ救われないと儀式の意味を教えた”のでした。”父は神を伝える存在として重んじられた”のでした。友人の牧師がメ−ルでこんな証しを紹介してくれました。

 「聖書研究会でのある婦人のお証…「今回、癌だとわかった時に祈ったの。そして御言を頂き勇気づけられ『主が必ず癒してくださる!』と確信を持って感謝出来たの。

 でも、人間て不思議ねぇ〜、治療が2ヶ月3ヶ月と長くなると心許なくなってくるの。勿論、御言葉の約束を疑う訳じゃない、しっかりと握り続け、主への信頼は変わらないのよ。そんな時、何が私を支えたかって言うとね、昔聞いたお証。

 信仰の先輩が最愛の息子さんを事故で亡くされた時に、そのお父さんが家族全員を集めて『さぁ私達は主の前にへりくだろう』とおっしゃった。その言葉なの。あなた、そんな苦しみの中で『神様何でなんですか!どうしてですか!』って文句をいってもおかしくない状況の中でよ。言える?。でも、その『主の前にへりくだろう』って言葉が、今回「あ〜そうなんだ」って心に響いたの。

 そうだ私も主の前にへりくだろうって素直に思え、治療が続く中でその言葉を何回も思い出しては平安を得ていたのよ。」

…(以下、牧師の言葉)。「これを聞いて私の心にも電流が走りました。自分の思いはある、自分の願いはある・・でも、最善以下の事をなさらない主の前に、私自身を御手に委ねよう。」

 私は、このお証を読みまして、息子さんを亡くされたお父さんの、家族全員を集めて「さぁ私達は主の前にへりくだろう」 と言われた姿こそ、”聖書の言う家庭に於いて神を指し示す父の姿”と思いました。

 けれども日本では、クリスチャンでない両親が圧倒的に多い筈ですし、親が子に、子が親に危害を加えたというニュ−スを耳にする昨今、そうした中から教会に来られている方も少なくないのです。”もし、そうした親ならば、この戒めは関係ないのでしょうか?…いえ、そうではないのです。その様な親だからこそ、真の親として天の神を求めて救われたのではないでしょうか?

 また、今、救われ神の憩いの中にいる私共に、この世に命を与える為、神は両親を用いられた”のです。”私共の両親は、クリスチャンをこの世に生む為に、神に用いられた”のです。ですから”敬えられなくとも重んじる事は出来る”のです。

”神はモーセを通して、私共の救いが本物かメッキかは、「心を尽くして父と母を敬う。敬えなくとも重んじる所に現れる」と指摘した”のです。事実、マタイ15章3節以下には、「献金をすれば父母をもてなさなくとも良い」と言う間違った教えがあった事が記されています。

 ”自分の言い分を捨て、神の御前に謙って、先ず、御言を神の言と信じて従うのです。親を敬うもしくは重んじるのです…そうする者だけが、神が賜る地(信仰によって神と共に生きる世界)で、長く生きる事が出来る、永遠に生きる事が出来る”のです。