「安息の回復の道 第四の戒め」

出エジプト記20章8〜11節
20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、

20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
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安息の回復の道 第四の戒め  

                   出エジプト20章8〜11節.2007.6/10

 ”第四の戒め”は「安息日の戒め」です…今朝は、安息日にある深さ広さを学び、その神の安息の回復の道について学んで参ります。現代人は日々の仕事に追われています。ともしますと、日曜日は働く事と働く事の間の出来事となってしまいます。仕方がない事かも知れませんが、信仰者の心の中において、主日が周辺の日になってしまう事は問題です。

 最初に、この「安息日を守りなさい」と言う第四の戒めが、十戒の中でどの位置にあるかを確認します。”第一戒〜第三戒迄は、真の神に対する礼拝の生活の戒め”でした。そして”第五戒〜第十戒迄は、隣人と共に生きる生活の戒め”です。この”第四戒は、ちょうどその繋ぎ目にあたる戒め”なのです。”安息日をまもって神の安らぎを受けている者だけが、真の隣人愛に生きる事が出来る”からです。

 聖書は、先ず、”人に休む事の大切さ”を訴えます。”忙しいという字も、心を亡ぼす”と書きます。ですから、”神は働く事を第一とせず、神の御許に抱かれて休息する事を第一にしなさい”と言うのです。

 ペンテコステ礼拝の時に来会されたS姉は、通訳のお仕事をされている方で派遣社員として、数週間こちらにおられたそうです。慣れない環境と仕事のストレスが溜まり、母教会の先生に紹介されてこちらの礼拝に出席され、「神の安らぎを頂き、ホッとしました」と言われていました。

 ヨハネと言う主の弟子は、Tヨハネ3:1で「私達が神の子と呼ばれる為には、どんなに大きな愛を父から賜わった事か、よく考えてみなさい…。」と言いました。”キリストの十字架は、私共の罪を赦し、神の子として、キリストに抱かれる、主の安息に入れて下さった”のでした。ゆえに”十字架は大きな〜神の愛だった”のです。

 信仰者の歩みは、”神の安息に預かってスタ−トして、毎週、安息日毎に、主イエスの安息に抱かれ、天国という安息のゴ−ルを目指して歩んでいる”のです。

 次に安息の預かり方について学んで参ります…”安息”という事を語る時、新約聖書ヘブライ人への手紙の3〜4章を外す事が出来ません。

 ヘブライ人への手紙3:18〜4:3だけをお読みします。「一体誰に対して、御自分の安息に預からせはしないと誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息に預かる事ができなかったのは、不信仰のせいであった事が私達に分かるのです。だから神の安息に預かる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなた方の内から出ないように気をつけましょう。というのは、私達にも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と信仰によって結び付かなかった為です。信じた私達はこの安息に預かる事ができるのです。」…ここには、”神の安息は神の言に対する信仰によって預かる事が出来る”とあるのです。この所が死んでいますと、教会生活が疲れて参ります。

 先ほども申しましたが、現代に於いては働く事が第一です。働く事を中心にして、休んではまた働きに向かうのです…しかし、聖書は「先ず安息日を重んじなさい。先ず、信仰によって、神の言から主イエスの安息に抱かれなさい」と言うのです。

 次に、旧約聖書から安息日の内容について学びます。出エジプト記20章8〜11節「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない…六日の間に主は天と地と海とそこにある全ての物を造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」

 ”神の創造の目的は、人間の創造で終ったのでなく、人間を神の安息に預からせる為にあった”と言うのです。同じ十戒を記している出エジプト31章には、「イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない」…この”安息日は、神による神の民との契約”だと言うのです。ですから、”神の民が安息日を破るという事は神との契約違反になる”のです。

 ”主イエスは、ご自分を「安息日の主」であると言われ”ました。主イエスが安息日に病んでいる方や困っている方を助けた事を批判した律法学者やファリサイ人に対して厳しく糾弾されたのでした。”神の安息に憩う者は、必ず隣人への愛へと向かうから”です。

 律法学者やファリサイ人は、旧約聖書時代のまま安息日を厳格に守っていたのです。労働は勿論、人助けもしなかったのです。旧約聖書時代は安息日は「〜してはいけない。何歩以上歩いてはいけない」と労働を禁じ、”ただひたすら心を神に向ける事を定め”ました。しかし、”いつしか、その「ただひたすら心を神に向け、神の言に憩う事を忘れ〜してはいけない」という戒めだけが残っていた”のでした。

 旧約聖書のエゼキエル書20:12−17には、”安息日の本質を忘れた神の民に対する神の嘆きと、やがて真の安息日を回復されるという神の決意”が記されています。

「私はまた彼らに安息日を与えて、私と彼らとの間のしるしとした。これは主なる私が彼らを聖別した事を、彼らに知らせる為である。しかしイスラエルの家は荒野で私にそむき、私の定めに歩まず…私の掟を捨て、大いに私の安息日を汚した。そこで私は荒野で、私の憤りを彼らの上に注ぎ、これを滅ぼそうと思った…私は荒野で彼らに誓い、私が彼らに与えた乳と蜜との流れる地、全地の最も素晴らしい地に彼らを導かないと言った…これは彼らがその心に偶像を慕って、わが掟を捨て、わが定めに歩まず、わが安息日を汚したからである。けれども私は彼らを惜しみ見て、彼らを滅ぼさず、荒野で彼らを絶やさなかった。」

 ”神は、神の民から、神の安息が失われている事を悲しんでおられた”のでした。そこで、”神は、愛する一人子を十字架に架けて、神の安息を、神の民に回復する決意をされた”のでした…やがて、”この世に現れた救い主イエスは、まさしく苦難の僕として生き抜かれ、最期は、十字架と復活迄歩み抜かれて、真の神の平安を回復して下さった”のでした。

 ”十字架と復活で、真の神の安息を回復して下さった主イエスは、弟子達の前に現れ、「安かれ」と言われたのです…その主の平安には、神のみ腕に抱かれるような力があった”のでした。”その主イエスの真の安息により、安息日は、土曜日から主イエスが復活された日曜日の朝に祝われるようになった”のでした。ですから”日曜日の安息日を主日と呼ぶ”のです。

 ”礼拝毎、主イエスは、私共の前に立たれ、「安かれ」と言われている”のです。”神の民は、この主イエスによる安息を求めて、兄弟姉妹励まし合って祈りの家に集い、主の安息に預かっていくのです。そして、キリストの安息に憩い、キリストから頂いた愛によって、キリストの躰である教会の責任を負い、また隣人愛に生きて行く”のです。