十戒「第二の戒め」その@
出エジプト20章3〜6節
20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
十戒「第二の戒め」その@
出エジプト20章3〜6節.2007.5/6
今朝、共に聴こうとしている神の言は、十戒の第二戒です。特に前半の
20:3-5「あなたには、私をおいて他に神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」です。
ここに「いかなる像もつくってはならない」とあります。像を拝む事が何故いけないのでしょうか?…それは、”永遠なるお方で、天地万物(人間も)をつくられた神を、人が造る事になるから”です。
4世紀の神学者アウグスチヌスは、「人の心には神の愛で満たされる事によってしか満たされない部分がある」と言いました。地上の全ての種族、民族が神を持っているのは、その故なのです。神が最初の人間アダムを造られた時、他の生き物は、皆つがいで造られたのに、人間だけはアダムだけだったのです。
それは”人間だけが人格を持つ存在として造られたと言えるのです。言い換えれば、人間だけが、神と愛の交わりを持つ事が出来るから”でした。ですから、他の動物は神を礼拝しないのです。
しかし”神は、神と人が1つ心になれる事を目で見える形で教えようと、男と一つ心になる相手として女を造られた”のでした。
アダムを眠らせてあばら骨からイヴを造ったのは、アダムとイブの骨の切り口がピタッと1つになる=心が一つになる事が出来る男女を示しているのです。
確かに動物のつがいは一つ心にはなれません…人間だけがそうなれるのは、神と1つ心になる事が出来る存在として造られている事を指し示しているのです。
ですから、この物語は、本当に人間には女性が最初にいなかったのかを論じるのが目的ではなく、この真理を語る為の物語なのです。ですから、”人間が偶像の神を造る事は、神にとっては浮気にあたる”のです。
神は、”罪によって神と断絶し、神から家出した人と、愛の交わりを回復する為、神の言葉(神の意志)を人(イエス・キリスト)として、地上にお遣わし下さり、十字架に架けられた”のでした。
”神が人になるという事は、神の真実な愛と、神のご献身だけがなせる御業”なのです。言い換えれば、”神の受肉は、神にしかできない事、人が介入してはいけない神の領域”なのです…受肉と復活は神聖な神の領域の出来事であり、人が詮索すべき事でなく、人は、この事に対して出来るのは、信じて受け入れるだけなのです。
ですから、”人間が偶像を造って、そこに入魂をする等という事は神への冒涜”なのです。
話は変わりますが、偶像を造る事がいけないのなら、聖画も駄目なのでしょうか?聖画は立派な文化ですし、良い聖画に引き込まれ厳かな気持ちになる経験を多くの人々がしています。
カトリック教会は聖画が描かれるようになった背景をこう説明します。昔の人は、文字が読めないのが普通で、また聖書の印刷も普及していなかった。そこで人々は教会堂に入ってきて、聖書の物語やイエス・キリストの生涯を描いた聖画を見て、聖書を学んだと言うのです。プロテスタント教会はカトリック教会が説明するこうした時代的背景を理解し受け入れました。
地上を歩まれた主イエスを心に描く事は許される事だと思うのです。ただ聖画を御神体として拝むの事が間違っているのは言うまでもありません。
また、この”十戒の第二の戒めを読む多くの方は、いわゆる偶像礼拝を禁じている律法として読むのではないか”と思います。とするとこの”第二の戒めは、第一の戒め「あなたには、私をおいて他に神があってはならない」と同じ内容だという事”になってしまいます。
確かにそう読む事も出来ます。しかし、聖書を正しく理解する為の教理集というものがあり、そこではそう理解していないのです。
代表的な教理集にハイデルベルク信仰問答と言う書があります。それには、「どのような方法でも神を模写してはいけない。ただ御言によってお命じになられた方法においてのみ神を礼拝しなさい」とあるのです。
ここに書いてある事は、”礼拝の中心にある説教を通して神を礼拝しなさい”と言う事なのです。”神が礼拝に於いて、この群れに開かれ語られた神の言を聴く事によって、神のご臨在に預かって礼拝する事が出来る”と言うのです。それが、「説教を通してのみ神を礼拝しなさい」と言う事なのです。
”人が御言に聴かず、神に自分の思いのみを通す時、神を自分の願いに奉仕する神へと仕立ているのです=神の私物化”です。”心の中で神の私物化が始まりますと、人は神の御言に聴従をしなくなります。その結果、神のご臨在から離れてしまう”のです。
”教会の2千年間の戦いは、この心の中で、神を私物化する過ちとの戦いだった”のでした。それ故、多くの教会や教理集は、この”十戒の第2戒を「心の中に偶像の神を造ってはならない」と理解する”のです。
ここで私共が学ぶべき事は、”如何にしたら、礼拝で清かな主イエスのご臨在に預かり、またそのご臨在に留まる事が出来るか”と言う事なのです。私共が礼拝に於いて厳しく吟味すべき事は、”今、神の臨在に預かっているか?私の心の内に神の私物化が始まっていないか?”という事です。
神の臨在を追い求めると聴きますと、神は目に見えませんから、礼拝する人間は「今、私は本当に生ける神を礼拝しているのだろうか?」という心許なさと戦う事になります。これは、”全ての礼拝する者の霊的な戦い”なのです。
ある著名な牧師が若い頃、近所の禅寺の住職とこんな話をされたそうです。「この本堂の仏様はいい顔をされていますね」と言った所、住職が「あんな物は無くても構わんが、こういう物がないと心許なくなる大衆の為に置いてあるのであって、我々にとっては、別に仏様を刻んで置いておかなくても良いのだ」と言われたと言うのです。
驚きました。”偶像を拝むイメ−ジのある仏教でさえも、目の前の像を拝むのではなくて、心の中の仏様を拝むもの”と分かりました。
しかし仏教は、礼拝する大衆の心許なさを克服する為、仏像を刻む事に妥協します。しかし、”キリスト教は、偶像を否定する”のです…”心の中に偶像がありますと礼拝の心が鈍るから”です。
”神を自分の思いに奉仕させる僕”にしてしまうからです。この出エジプト記が繰り返して語るのは、”神が人間を持ち運んで下さる、導いて下さる主権者、導き手という事”なのです。”全てを見通されている神は、私共を最善へと導かれる”のです。にも拘わらず”イスラエルの民は自分達の思うままに運べる神を求める過ちを繰り返した”のでした。
皆さんは、物言わぬ偶像の前で、罪を悔い改める人を見かけた事があるでしょうか?…沈黙する神の御前では、人は自分の思いだけを語るようになります。”人は神の言を聴かなければ、自分の罪を知り悔い改める事が出来ません…神の言を聴き、悔い改めて罪赦される事こそが、神のご臨在に預かる道”なのです。
それは、”礼拝堂に偶像が無ければ良いという事ではありません。心の中から神に一方的に自分の思いや願いを語る心、神を私物化する心を排除する事”なのです。そして”御言を神の言として聴く”のです。
正に教会の歴史は、この罪との血みどろの戦いの歴史だった”のでした。”私共は礼拝毎に、神が土居キリスト教会に対して語られる神の言を聴き、神を見上げて、神のご臨在に預かり礼拝を献げている”のです。
この朝、共に、「自分は心の中に、自分の思いに奉仕させる偶像の神を造って来なかったか」を振り返り、悔い改めをもって、豊かな神のご臨在に立ち返りたいと思います。