「ねたむ神の愛」 十戒「第二戒」そのA
出エジプト記20章5〜7節
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
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Society,Tokyo,1987,1988,1995
「ねたむ神の愛」 十戒「第二戒」そのA
出エジプト20章5〜7節.2007年5/13
今朝は先週に続いて、十戒の第二戒から学んで参ります。第二戒の後半に、「私はねたむ神…」とあります。この「ねたみ」という言葉は、とても人間臭い生々しい言葉です。ですから「私はねたむ神…」という神の自己紹介のお言葉を聴きますと、神に相応しく無いと感じられる方もおられるかも知れません。
先週、私共は、この第二戒から、”人間は刻んだ神を造ってはならない事”を学びました。神は天地万物を創られた神であり、今も生きておられて聖書を通して語り愛して下さるお方だからです。”人が神の言を聴くという正しい礼拝の心を失ってしまいますと、神と人間の関係が逆転してしまい、神を僕にして、神の言を聴かずに自分の願いだけを押しつけてしまう”のです。それが、”神を私物化する罪”でした。そのような信仰は御利益がなければ神を捨ててしまう信仰となるのです。
こうして神に、十戒を頂いたモーセは、シナイ山を降りていき、モーセの帰りを待ちきれなかった民が、不安に負けて金の子牛の像を造り拝んでいるのを見たモーセが、怒って十戒が刻まれた石の板を割ってしまい、再びシナイ山に登って十戒を頂いた事が出エジプト記の34章に記されています。そこでは、十戒の第二戒がこうなっています…「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である」。
”聖書で、名は、その人物の本質を現し”ます…ここで神はご自分の事を、「熱情の神」と言われたのでした。”このような神を理解する事こそ、十戒を聴く鍵”なのです。
この「熱情」と言う言葉を、前の十戒では「ねたむ神」と言っているのです…”神は、ねたむ程に激しい熱情をもって私共を愛しておられる”と言うのです。それゆえ、”神は私共にも激しい愛の応答をお求めになる”のです。まして”私共の愛が、人が刻んで造った偶像へ向けられる時、神はねたまれる”のです。”神の愛は、「ねたむ」という品の良くない言葉以外に適切な言葉が無い程の愛”なのです。
人はクリスチャンとして生きようとする中で、尚も根深い原罪が残っている、自分の本当の姿を知り、その時、自分から目を背け、神からも目を背けたくなるのです。恥ずかしいもの、あってはならない憎むべきものだからです。しかし、よく考えて見ますと、”イエス・キリストは、私共が良くなったから愛して下さったのではなかった”のです。”私共がどん底の時に来て下さり、心の痛みや悲しみを理解し、丸ごと受け入れて下さったお方”でした。
ですから、”目を背けたくなる自分の醜い部分に素直に目を向けるべき”なのです。何故なら、”そこから癒しが始まるから”です。そのように”心の本音の場で主イエスと出会う事によって人は癒される”のです。
ある教会で若い女性が求道を始められました。その方は何時も顔に”どうらん”を塗っておられたそうです。顔にアザがあったからでした。けれども彼女は教会に通い続ける内に変わって行きました。自分をあるがまま受け入れて下さる神を知って、自分のあるがままを感謝を持って受け入れる事が出来るようになったのでした。やがて”どうらん”を塗らなくなりました。
ある時、彼女が電車に乗っていた所、目の前に座られたおばさんが、「あら可愛そうに。ちょとお聞きして悪いんだけど、あなたは、そのアザ気にならないの?」と聞かれたそうです。その場面を想像するこちらが緊張しますが、彼女はにっこり笑い「これは私の宝なんです」「ええっ宝、それが?」「ええ、神様が私にくれた宝なの」…それを聞いたおばさんは、益々驚いて「どうしたら、あなたのようになれるの?」と聞いて一緒に教会に行く様になったと言うのです。
クリスチャンにとって難しい事は、聖霊のお働きに、素直に自分を委ね明け渡す事です。人は頑固に、「このままでは神に受け入れないのではないか?」「こんな私じゃいけないんじゃないか?」と、”最後まで自分で頑張ろうとしたり、自分の姿から目を背けたりするのです。しかし神の祝福は私共の足下にある”のです。
”神の祝福を頂く為には、素直になって膝をかがめるように、御言に聴き神の愛に応答する事”なのです。見方を変えれば、”神が自分に愛の応答を迫っておられる事を聴いて違和感を感じられるならば、自分の信仰に問題がある”とも言えるのです。
旧約聖書のイスラエルの民の歴史は、この神の愛に背を向ける歩みでした。旧約聖書のホセア書では、”この罪を姦淫の罪”と言います。”旧約聖書の歴史は、正に神の民の姦淫の罪の歴史”でした。と同時に,”その罪に対する神の審きの歴史”でもあったのです。しかし、”もし神が審かれるだけの神であったなら、イエス・キリストを地上に遣わされる事は無かった”のです。神は罪を裁かれながらも神の民を愛し抜かれたのです。
出エジプト20:5〜6「私は、ねたむ神であるから、私を憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、私を愛し、私の戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう」…”罪に対する報いは、3〜4代に及ぶが、神を愛する者に対しては、恵みが千代に及ぶ”と言うのです。
私共の心が神から離れ、罪に支配される時、神との関係が壊れ、人間関係まで崩壊して行くのです。親の姿は子供に影響します。自分の罪も子供に影響して行くのです。また孫にも影響は及んで行く事でしょう。しかし”神を愛する者に対して、神は悪い影響をそこで断ち切り、千代迄も祝福する”と言われるのです。
今、多くの国々法律の基礎となっているのは聖書です。人権も福祉も文化も、そして医学や教育やボランティアの理念の多くが聖書から生まれたものなのです。日本ではクリスチャンが0.7%しかいないので実感が沸きにくいのですが、今世界の人口は92億人です。福音の宣教によって、クリスチャン人口は17,5〜25億人と言われます。なんと人類の1/4がクリスチャンなのです。韓国では1/3〜1/4がクリスチャンで、信仰弾圧が残っている中国でも、1/10がクリスチャンです。正にありとあらゆる所に、”神を愛する者に対する神の祝福の証がある”のです。
最後に、皆さんと共に”神を愛する祝福は子孫の千代までも及ぶ”と言う戒めに耳を傾けましょう。今、”私共が神を愛するかどうかと言う事が、子孫の祝福に対する責任でもある”というのです。この子孫というのは必ずしも血筋だけでなく、教会における信仰の継承=霊的子孫をも指していると考えるべきだと思います。
私共は”人間関係”と言いますと、先ず”横との関係”を考えます。しかし、”聖書が一貫して重んじている人間関係”は、”縦のつながり”なのです。”子孫への信仰の継承”です。
”神の熱情の愛に、自分も愛をもってお応えするという責任を果たす時、神は千代迄も子孫を祝福する責任を果たして下さる”のです。このように”信仰継承の責任が神に問われている事”を思いますと、その責任の重さにくらくらとたじろいでしまいます。しかし”十戒は、神の恵みは千代まで続くと約束する”と言うのです。大きな励ましと慰めの言葉です。
私共が、”神を私物化する罪を捨て、ねたむ程に自分を愛して下さっている神を見上げ、礼拝毎に御言を語りかけて下さる神の熱情の愛に、共に感動し、愛をもってお応えしていくなら、神は千代まで祝福して下さる”のです。