「復活の主と一体となる洗礼」
ロ−マの信徒への手紙6章3〜5節
6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれる為に
洗礼を受けた私達が皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
6:4 私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりまし た。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたよう に、私達も新しい命に生きるためなのです。
6:5 もし、私達がキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活 の姿にもあやかれでしょう。
ecutive
Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
「復活の主と一体となる洗礼」
イースター礼拝.ロ−マの信徒への手紙6章3〜5節.2007.4/8
今朝は、”イエス・キリストの復活を記念するイースター礼拝”です。”神が独り子イエスを、永遠の命の初穂として、死から甦らせられた日”です。それは、また、”永遠の滅びである死が打ち破られた日”ともなりました。歴史上最大の日となったのです。
キリストは十字架上で「我が神〜どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれました。この言葉を持ち出して、イエス・キリストを敗者だという世の人々もおります。それは違います。このお言葉は、詩篇22篇の1節なのです。この詩篇は十字架を預言している詩篇で、やがて賛美する事を誓い、賛美に至るものなのです。
当時のイスラエル人は聖書を暗記していましたから、主イエスが十字架の上で、息も絶え絶えに1節を口にされたお言葉を聴いて、主が賛美されている事が分かったのです。主イエスは、今、成就しようとしている十字架で救いが完成し、これから救われる人々が、洗礼を通して、主イエスの十字架と共に
、古き自分が死に、復活されたキリストと共に新しく生まれ変わる事を見つめて賛美されたのでした。
主イエスの復活が日曜日の朝だった事を記念して、礼拝が土曜日から日曜日に移され、”礼拝は復活の主にお会いする場となった”のです。”礼拝で復活の主にお会いする為”に大切な事は、”主と一体となっている事”です。それゆえ、”主イエスを信じ救われた者は、主イエスが十字架上で賛美されたように、洗礼を受けて主イエスと一体となる”のです。
今朝、Y姉が、神の恵みにより受洗の恵みに預かりました。牧師家庭の長女として生まれ、沢山の恵みや、人との出会いに恵まれて育ちました。 本人はまだクリスチャンでもないのに、牧師の家族として献身者と同じ辛さも味わってきた事と思います。けれども、神の恵みによって、神に対する素直さが守られて来た事に感謝しています。
しかし、思春期と、物を斜めから吟味してみる性格が合いまって、聖書に対して様々な疑問が沸いて来たようです。それは良い事ですが、学校生活の忙しさの中、その葛藤と取り組む事が出来ず、何時しか信仰から距離を置くようになっている事を親として感じていました。聖餐の時に、何となく寂しそうに見えたのは、この神との距離の故だったのかも知れません。
昨年、高二の夏のバイブルキャンプで杉野師に導いて頂き、なんとなく親の信仰につながっているのでなく、自分の信仰で信仰告白をする大切さを知って救いに導かれ、勉強会を経て今朝の受洗に至りました。
人は、この”洗礼によって復活の主と一体となる”のです。”教会の働き”の中で大切な事に、”正しく礼典を執行する事”があります。プロテスタント教会に於いて「洗礼式」と「聖餐式」が、その礼典です。”人は、この「洗礼と聖餐」を通して、主イエスと一体となり、十字架と復活による救いに預かっていく事が出来る”のです。
”洗礼”は、”イエス・キリストを救い主と信じて救われた者が、「今日から私は神の子になりました」と、神と人の前で告白する事”です。それを”水に入って告白する”のです。
しかし、”何故、水に入る”のでしょうか?…古今東西、”宗教は水を汚れを洗い清めるものとして用い”て来ました。また、”生き物に命を与える事から、生命力が宿っているものとしても見てきました”。
しかし、”教会の洗礼は少し違う”ようです…ヘブライ人への手紙9章13〜14節に「なぜなら、もし雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者達に振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身を傷の無いものとして神に献げられたキリストの血は、私達の良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」とあります。
これは、旧約聖書の民数記19章にある、”雌牛を焼いた灰を溶かした水を浴びて聖めた儀式を、十字架の光で解釈したもの”です。”罪のなだめの牛の血は、イエス・キリストの血潮を指し示していた事、また、その生け贄を焼いた灰を溶かした水を浴びた事も、十字架の血潮を浴びる洗礼を指し示している”と言うのです。
”洗礼の水は、単に水が汚れを聖めるのでなく、罪を洗い聖めるキリストの血潮を指し示していた”のです。
さて、”洗礼にはもう一つの大切な意味”がございます。それは、”イエス・キリストの所有になる(つながる。一体となる)事”です。その事を、旧約、新約聖書から学んで参ります。
使徒パウロは、Tコリント10:1〜4で、「兄弟達、次の事は是非知っておいて欲しい。私達の先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分達に離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」と言いました。
これは、今、私共が礼拝で学んでいる、旧約聖書の出エジプトの出来事です。2節に、「皆、雲の中、海の中で…洗礼を授けられ」とありますが、当時、”雲は神の臨在の象徴でした。
使徒パウロは、「出エジプトは、エジプトで奴隷とされていた200万人を超すイスラエルの民を、神が紅海の海を二つに分けて救い出して下さり、両側にそそり立つ水しぶきによって、集団洗礼を授けて神の民とされた出来事でした。そして、それは、やがてキリストが十字架で、罪という王の支配から、人類を救い出し、洗礼によって、新しい神の民とする事を指し示していた」”と言うのです。
さて、”主イエスも、この洗礼を重んじました。「十字架を信じて救われれば、それで良い」とは言われなかった”のです。マタイ28章18〜20節「イエスは、近寄って来て言われた。「…あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…教えなさい。私は世の終わり迄、いつもあなたがたと共にいる。」
”洗礼を受ける事は、イエス・キリストの御命令だった”のです。そして、”「主イエスは、この命令を守る者だけが、世の終わりまで私と共にある」と言われたのです。
この、”「洗礼を受ける者だけが主イエスと共にいる事が出来る」という事を、ロ−マの信徒への手紙6章3〜4節から、学んでみたいと思います。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれる為に洗礼を受けた私達が皆、またその死に預かる為に洗礼を受けた事を。私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に預かるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きる為なのです」
これは、”洗礼はイエス・キリストに預かる(結ばれる。一体となる)事”と言っているのです…”人々の救いは、十字架による罪の赦しと、洗礼によってキリストと一体になる事によって完成するから”です。”十字架と共に古き自分が死に、主イエスの復活と共に、永遠の命を受けて新しく生まれ変わる”のです。
旧約聖書時代、”出エジプトで、イスラエルの民が、二つに分けられ両側にそびえ立っていた紅海の水しぶきを浴びて、集団洗礼を受けた事を、「モーセに属する者となる洗礼」”と使徒パウロは言いました。
イスラエルの民が神に従ったモーセと一体になって救われたから”です。”今、キリストを信じた者が、洗礼式で水の中に入るのは、キリストに属する者となる為”なのです。”キリストと共に(一体となって)死ぬ事(古い自分の葬式)であり、また、洗礼槽の水から上がるのは、死を打ち破られ復活されたキリストに預かる(一体となって新しい命に生れかわる)事”なのです…”それ故、洗礼によって、人は復活の主と共に生きる事が出来る様になる”のです。
”イエス・キリストは、十字架と復活によって救いを与え”て下さいました…”救い”と言うのは、”十字架の血潮によって罪が赦される事と、復活のキリストと一体となる”事なのです。勿論、”洗礼式という儀式に力があるのではありません。信仰によって預かる洗礼に救いの力がある”のです。
こうして”受洗の恵みに預かった者は、主イエスを信じた「過去」に於いては「罪が赦され」、「現在」に於いては、キリストと一体となって、キリストと共に生きる者とされており、「未来」に於いては「永遠の命を持つ、栄光の身体に変えられる」希望が与えられている”のです。
このイースターの朝、復活の主と一体とされている私共は、同じ主のお躰に加えられたY姉と共に、この恵みの中を共に歩んで参りたいと願います。