十戒:第一の戒め「とは愛の応答に生きる事」
出エジプト20:1〜3
20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。
20:2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
十戒:第一の戒め「とは愛の応答に生きる事」
出エジプト20:1〜3.2007年4/29
エジプトから旅立って3ヶ月目、民はシナイ山に近づきました。モーセは、民をシナイ山の麓にとどめ、かつて神に言われていた事に従って、シナイ山に登り、民を神の民とする為のシナイ契約を神から受け取って山から降ってきたのです。そして民は神と契約を結んだのでした。
その後、モーセは、再びシナイ山に登って行きました。そこで神は、出エジプト19章10〜11節を語られました。「主はモーセに言われた。「民の所に行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目の為に準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである」
”神がここで、御自身を顕されて十戒を与られるのは、神の民として契約を結んだイスラエルに、神の民としての命を与えられる為”でした。
私の家は商売をしていた為、年末になると大掃除をしました。そうして、新しい年を迎える心備えが出来た事を思い出します。神は、この時、”洗濯という備え”を命じられたのです。それは、”外を聖める行為を通して、内なる心の聖めの必要に気づかせる為”でした。こうした備えの中で、”神に出会う心備えが生まれて行った”のでした。
このような”民の心備え”の命を神より受けたモーセは、シナイ山から降りて行き、民に神の言を伝えたのでした。そうこうしている内に、神が御自身を顕すと約束された3日目が訪れました。
突然、山の頂にモクモクと雲が立ち込め始めたのです…当時、”雲は、神の臨在の象徴”でした。また、この時の”雲”には、神の特別な配慮があったのです。イスラエルの民が、その御姿を見て死ぬ事が無いように、神の御声だけを聴かせる為でした。
それから雷と稲妻が光り出し、天の角笛の音が高く鳴り響いたと聖書は記します。神のご顕現が火山活動と相まって描かれているようです。モ−セは恐れる民に、雲の中にある神の御臨在に預からせようと、山の麓に立たせたのです…そして、ついに”神の御顕現がシナイ山に顕れた”のでした。
主なる神が、火の中で山の上に降って来た時、シナイ山全体が煙に包まれ、煙がかまどの様に立ち上がり、山が激しく震え出したのでした。
昨日まで静かだったシナイ山の変貌を見たイスラエルの民は恐れに覆われました。子供達も両親の側で震えながら、その光景を心に焼け付けただろうと思います。そんな中、神の角笛の音(噴火?)が鋭く鳴り響いたのです。
その中でモ−セが神に呼びかけると、神は雷鳴をもって答えられたのでした。 その時、モーセは、また神にシナイ山に呼び寄せられたのです。
高齢のモ−セにとって、僅かの期間に、2千mの山に何度も登る事は大変だったと思います。
しかし民は、モーセから聞いた神の忠告を破って、神をその目で見ようと山に近づいたのでした。モ−セは、まさか警告を聞いている民が、境界線を超えて山に近づく事はないと思っていましたが、再度、主が仰せになるので、確認のため山を降りて行きました。はたして神が言われた通り、イスラエルの民は、好奇心から主を見ようと山に登ろうとていたのでした。
イスラエルの神に対する信仰は、まだまだ幼かったのです。モーセから、「人が汚れたまま神の御前に出ると、神の余りの聖さに押し潰されるように、撃たれて死んでしまう」と聞いても分からなかったのです。まだ民には神の聖さという事がわからなかったのでした。
聖書学院の壁に、教会案内の看板があり、それに「きてご覧なさい。そうすればわかります」と書いてありました。信仰をもって神と交わらなければ、人は神の聖さや愛が分からないのです。
こうした紆余曲折の後、”イスラエルの民は、聖なる神を畏れる事”を学び、”神とお会いする心備えが整いました…その時、はじめて神は御自身を顕され、十戒を与えられた”のでした。
旧約聖書のアモス書4章12節に「イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ」とあります。新約聖書のマタイによる福音書5章8節にも「心の清い人々は幸いである。その人達は神を見る」とあるのです……今も昔も、”神にお会いする為には、備えが必要”なのです。
今、私共が神とお会いし、神と交わる事が出来る為に、即ち。”聖い心を与える為に、神は自ら備えの道をお開きくださった”のでした…”独り子イエスを十字架に架けて、人の罪を贖い、心を聖めて下さった”のです。”人が神と出会う場は、十字架の血潮で罪赦された聖い心”だからです。
先週の祈祷会で本田弘慈先生の証をご紹介しました…本田弘慈先生が神学生の時、食堂のおばさんに「あなたって本当に嫌な、汚い心の悪い人ですね。あんたはね。自分が病気の時に、「食堂のおばさんは、ちっともかまってくれなかった」って、みんなにふれまわったそうじゃないですか」と言われたと言う事です。
そこで友人に「あんた、私の事どう思う?」と聞いたら、「あんたの説教を聞いて一度も恵まれた事がないよ。あんたみたいな肉的な人はいないよ」と言われて、さらに落ち込んでしまったという事です。その時、本田牧師は、神の前に静まって祈られたそうです。
そこで、「我キリストと共に十字架につけられたり」という聖めの経験をしたのだそうです。本田先生が大衆伝道者として用いられている秘訣がここにあります。神に用いられる人は、何処かで、「自分は主イエスと共に十字架で死んだ。そして復活の主と共によみがえった。もはや生きているのは私ではない。キリストが私の内に生きておられる」というガラテヤ人への手紙2章19−20節の経験をもっているのです。
”その心こそが、主イエスと交わる場”なのです。
私共は、”御子イエスの十字架という代価”によって、”主とお会いする場(備え)である、聖い心”を与えて頂いたのです。だからこそ、その「聖い心」を守る為、御言に聴き祈る信仰生活を大切に〜して、絶えず主イエスにお会いし、主と交わり、主と似たものとなり、自分のからだをもって主の栄光を現して参りたいと思います。