神に委ね抜かれた救い主(十字架の7つのお言葉…その二)

十字架の上の7つのお言葉

十字架の上の第一のお言葉、ルカによる福音書23章34節。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」

十字架の上の第二のお言葉、ルカ23章39節以下。「十字架にかけられていた犯罪人の一人がイエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか…我々は、自分のやった事の報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪い事をしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われた」

十字架の上の第三のお言葉、ヨハネによる福音書19章26〜27節。「イエスは、母とその側にいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」

十字架上の第四のお言葉…マタイによる福音書27章45〜46節「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である」

十字架の上の第五のお言葉…ヨハネによる福音書19章28〜30節「この後、イエスは、全ての事が今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した…イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」

十字架上の第六のお言葉…ヨハネによる福音書19章30節「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて「すべてが終わった」と言われ、首をたれて息をひきとられた」

十字架上の第七のお言葉…ルカによる福音書23章44〜46節「既に昼の十二時頃であった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます」こう言って息を引き取られた。」
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


 
神に委ね抜かれた救い主(十字架の7つのお言葉…その二)
                  「受難週」 マタイ27:45-46、ルカ23:44-46. 2007.4/1

 今週は大切な受難週です。聖週間とも言われる、主イエスの十字架を思い祈る一週間です。今週は先週に続いて、”十字架上の7つのお言葉”について学んで参ります。クリスチャンは、”イエス・キリストの十字架は、自分の罪を贖う為のもの”だったと知っています。

 ”罪の本質は、神に背を向けている事”です。”そこから、悪い思いや行為がなど具体的な罪が生まれ出て来る”のです。聖書は「義人はいない。一人もいない」と言います。”神から離れた事の無い人はいないから”です。

 ”いえ唯一人だけ”おりました。”神の独り子イエス・キリスト”です。”主イエスだけが、「お父さん」「父よ」と言って、父なる神と交わっておられた”のです。ですから、”この主イエスだけが、神に御顔を隠され捨てられる、本当の恐ろしさと絶望を感じる事が出来た”のでした。

 聖書は、「死は罪の結果」と言います。ですから、”罪が無い主イエスは、死ななくとも良いお方、死ぬ事が出来ないお方”だったのです…その”お方が、世の終わりに、全ての人が経験する神の審きを、誰よりも先に経験されて、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と経験され、そして死んで下さった”のでした。

 今朝、最初に学ぶ、”十字架上の第四のお言葉”、マタイによる福音書27章45〜46節「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である」

 ここは”十字架の頂点”と言われている所です。昼の十二時に暗黒が地上を覆ったのです。過越の祭りの時は、太陽と月の位置から日食は起こりえませんから、”光なる神が、余りの辛さの故、光る事が出来なくなった”とも言えると思います。

 ”神の辛さ”は、”我が子の死を見つめる辛さだけではありません”でした。”神が最もお辛かったのは、十字架の死に至る迄、父なる神に従いきった、我が子を審かねばならない事”でした。そして主イエスは、十字架の上で、「ついに神に捨てられた」と自覚された時、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのでした。

 勿論、”主イエスは、十字架が人の救いの為に必要な事をご存知でした。それゆえ、ゲツセマネで汗を血の様に流されて、十字架に向かって立ち上がられた”のです…その事から、この主の叫びを読み直しますと、「ああ、私は今、お父さんに捨てられている。けれども、今、私が味わっている、この神の審きが、今、献げようとしている命が、人々の罪の代価を支払っているのですよね」と言う言葉として聴こえて参ります。

 ”十字架の上の第五のお言葉”、ヨハネによる福音書19章28〜30節「この後、イエスは、全ての事が今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した…イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」です。

 この時、主イエスは肉体の苦痛の極限の中におりました。詩篇22篇15〜16節、「私は…骨はことごとくはずれ、心は胸の中でろうのように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられる」とあります。

 手術をした人は、渇きの辛さを知っておられます。出血による渇きは、花瓶の水さえ飲んでしまうものだとお聞きした事があります。”人間にとって渇きは最も深い苦痛”だからです。ここで、”命の水である主イエスが、「私は渇く」と叫ばれた”のでした。

 もう少し注意深く読みますと、”主イエスは、万事を成し遂げられた時に、「私はかわく」と言われた事”に気づきます。それは、”「ああ、これで罪の贖いが完成した。一切が終わった」と自覚された時、ふと気がつくと、ご自分の肉体を灼熱の渇きが襲っている事に気づかれ「私は、かわく」と言われた”のでした。言い換えるなら、”灼熱の渇きにさえ気づかない程、神の審きは厳しいものだった”という事です。
 
 ”十字架上の第六のお言葉”、ヨハネによる福音書19章30節「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて「すべてが終わった」と言われ、首をたれて息をひきとられた」…ここの「すべてが終わった」というのは、「完了した、成就した」という意味です。”主イエスは、「これで罪の贖いが全て完了した。もう人間の赦いの為に、何もつけ加えるべき物はない。」と言われた”のでした。

 主イエスが十字架に架かられる前、弟子のユダが人々を連れて主イエスを捕らえにやって来ました。弟子のペトロが剣を抜いて戦おうとするの制した主イエスは、マタイ26:53〜54「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」

 主イエスは、「十字架は旧約聖書に預言されているではないか」と言われたのです。”旧約聖書には十字架の預言が散りばめられています”。代表的なのが、詩篇22篇とイザヤ53章です…”主が全ての預言を、「完全に成就した」と言われたのは、渾身の力をふりしぼった勝利の宣言だった”のでした。

 ”十字架上の第七のお言葉”、ルカによる福音書23章44〜46節。「既に昼の十二時頃であった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます」こう言って息を引き取られた。」

 この「父よ、私の霊をみ手に委ねます」というのが、”主イエスの最後のお言葉”でした。”十字架で罪の贖いを完成した後に、「父よ、もう一度あなたのみ手に、私の全存在をお任せいたします」と言われた”のでした。

 読み過ごしてしまいやすい御言葉ですが、これは大きな言葉なのです。”十字架上の、ご自分に対して、み顔を隠され、呪い審かれた神に対し、「父よ」と呼び、死後の一切を委ねられた”と言う事だからです。”キリストは、最後の瞬間に至る迄、不信仰という罪を犯さなかった”のでした…そして、その”完全な従順ゆえに、父なる神に、復活という栄光を与えられ報われた”のでした。こうして、”サタンが指一本触れる事のできない救いが完成した”のです。

 荒野のような人生を生きる私共に、聖書は、「最後迄、耐え忍ぶ者は救われる」と約束します。”全知全能の神にも一つだけ不可能な事があります。それは、不真実をする事です。嘘をつく事とも言えます。神は、苦しみの中で、「主よ、わが霊を汝のみ手に委ねます」と、神の真実を信じて委ねきった魂を捨て置く事が出来ない御方”なのです。

 私共の苦しみが、どんなに深くとも、”「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた主以上の苦悩ではない筈です。痛みを通られた主イエスだからこそ、私共の痛みを分かり、共に呻き、執り成し祈って下さるのです。

 私共の痛みは、主イエスの祈りによって神に届いているのです。その事を信じ、神の真実に信頼して、「父よ、私自身をも、主の様に、み手に委ねます」と神に委ねるなら、私共の人生に於いても、神は栄光を現して下さる”のです。