宝の民の使命
出エジプト19:1〜9
19:1 イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。
19:2 彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。
19:3 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。
19:4 あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。
19:5 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
19:6 あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
19:7 モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。
19:8 民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、
19:9 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
神の宝の使命
出エジプト19章1〜9節.2007.4/15
イスラエルの民は、エジプトを出てから3ヶ月目、ついに神の山シナイ山に到着しました。シナイ山はアラビア半島南部にある標高2293mの山です。
モーセは以前、3章12節「私は必ずあなたと共にいる…あなたが民をエジプトから導き出した時、あなた達はこの山で神に仕える」と御告げを受けていたので、シナイ山に登って行ったのです。そしてモーセは、神のお約束通りに、このシナイ山で神の御告げを聴いたのでした。
それが4節以下の所です。先ず4節をお読みします。「あなた達は見た/私がエジプト人にした事/また、あなた達を鷲の翼に乗せて/私のもとに連れて来た事を」
「あなた方は…見た」これは力強い言葉です。「エジプトに10の災いを下し、紅海の底に道を造り、あなた方を、奴隷とされていたエジプトから救い出した私の業をあなた方は見た」と言われたのです。
神はその救いの御業を鷲にたとえられました。鷲はどう猛な猛禽類ですが、高い木の上や絶壁に巣を作り雛を育て、雛が巣立つ飛行訓練をする時には、雛の下を飛んで守るのだそうです。正に、”神は鷲のような力強さと愛情をもってイスラエルを救い出された”のでした。それは、”イスラエルを御自身の宝
の民とする為”だったのです。
かつて神は、信仰の父と言われる”アブラハムと契約”を結ばれました。それによって、子供の無いまま老いたアブラハムは子供が与えられ、国家となる迄増えたのです。それは、”神の一方的な恵みによる契約”のゆえでした。
それから時が経って、モーセの時代になった時、神はその民を、”ご自分の宝の民とする為”に、”シナイ契約”を結ばれたのでした。この”シナイ契約”は、”人の側にも応答を求めた最初の契約”だったのです。
シナイ契約>19:5〜6「今、もし私の声に聞き従い/私の契約を守るならば/あなた達は、全ての民の間にあって/私の宝となる。世界は全て私のものである。あなた達は、私にとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
神が人に求められた、”応答”こそが、「神の御声に聴き従うか?」という事だったのです。”神が民を、宝の民とする為に求められた事こそ、神の御声に聴き従うという事”だったのでした。この時、”イスラエルの民は、一斉に「私達は、主が語られた事を全て行います」と応答した”のでした…そして、ここに”神の宝の民とされる契約が成立した”のでした。
”神の宝となる”事は、”神のものとなる事=神が主人となる・神を主とするという事”なのです。そして、”神の僕となった者は、喜んで主イエスの言葉を聴く”のです。
”アブラハムとの契約の一方的な恵み”と,”シナイ契約の人間に、神の言に聴くという応答が求められた”という”神との契約の2つの側面”は、やがて”十字架に引き継がれ”ました。
”十字架を信ずる者が無条件に赦される事(一方的な赦し)と、キリストを主とする者となる(キリストに聴従する者となる)という応答”となって実を結んでいったのでした。
”神は、人の誓いの脆さなど百もご承知で、民の幼い誓いを受け入れられた”のでした。私共の信仰も民のようなものかも知れません…いつの間にか、キリストが主でなく、自分が主となって、自分の感情や、不安や弱さで揺れてしまう信仰の挫折を経験します。
しかし、”その挫折の中でこそ、人は、そんな不真実な自分を、何処迄も愛し、赦し、執り成し抜いて下さっている、真実で変わらない主の愛を知る”のです…また、そこでこそ、私共は、”許す者、執り成す者へと変えられる”のです。
神はイスラエルの民に、「もし私の声に聞き従い/私の契約を守るならば…私の宝となる」と言われました。ここで使われている”宝”と言う言葉は、”ダビデ王が神殿建築をする時に献げた金銀”を指している特別な宝を現す言葉です。
”宝を買うには大きな犠牲が伴い”ます。母親にとって子供が宝なのは、出産の苦しみを支払っているからです。”キリストも、十字架で血潮を流すと言う尊い代価を払い、私共を永遠の滅びから買い戻して、「キリストのもの=神の宝」として下さった”のでした。
旧約聖書の最後にあるマラキ書の3章17節にも、その事が預言されています。「私が備えているその日に、彼らは私にとって宝となると万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむ様に、私は彼らを憐れむ」…正に、”神は、備えられたその日(十字架)によって、私共を、子供(イエス・キリスト)を憐れむ様に、私共を宝と見て下さっている”のです。
この後、信仰がなく、悔い改めない民に対する400年間の沈黙が訪れるのです。その神の沈黙の後、この預言通りに、救い主をこの世に使わして、十字架によって新しい神の民を生み出されるのです。
正に、このマラキ書の神の言は、民に神の民として神に立ち返るようにとの最後の忠告であり、もし、この最後通告でも駄目なら、新しい神の民を生む十字架の日を計画しているという預言だったのでした。
この旧約聖書の出エジプト19章の”シナイ契約”と同じ言葉が、新約聖書のTペトロ2:9にもございます。「しかし、あなた方は、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなた方が広く伝える為なのです」とあります。
ここを見ると、「神の宝とされた」事は、「神の宝として選ばれた」という事が分かります。更に、”神の宝として選ばれた者に託される使命”が記してあります…”「祭司」「聖なる国民」となる使命です。シナイ契約と同じです。
”Tペトロは、「祭司」「聖なる国民」になる意味が記されています…それは、驚くべき神の救いを伝道する為”と記されているのです。
”祭司の使命は、神と人との間に立って執り成す事”です。ゆえに、”全ての神の宝に、祭司の使命が授けられている”と言うのは、”神の宝とされた者は、隣人の為に執り成し祈り、神の言を頂いて語る。その事により救い主を伝える者となる”と言う事なのです。
祈祷会のG姉が怪我を押して来られ、玄関から椅子まで這って席に着かれました。”御言葉に生き、執り成しの祈りに生きる祭司の姿”を見させて頂きました。
”神の宝の民”のもう一つの使命は、「聖なる国民となる」事でした。マタイ5:8(新改訳)「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」とあります。”心の聖い者は、心におられる主イエス(聖霊)が分かる”のです。
テトス2章14節には「キリストが私達の為に御自身を献げられたのは、私達をあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清める為だったのです」とあります。
”良い行いというというのは、熱心に主と交わる事なのです。「朱に交われば赤くなる」の諺のように、主イエスと交わる者は、主イエスに似ていく”のです。
そして、世の人々は、「あの人を見るとキリストが分かる気がする」というようになるのです。”聖められる事によって、主イエスに出会い、主イエスを世に見せる者となる”のです。それが、”地の塩、世の光となる事”なのです。
けれども”聖くなる事は頑張ってなれるものではありません…クリスチャンは、十字架によって既に聖められている”のです。自分の姿に挫折する危機的な中で祈る時、「私は十字架で、既にあなたを聖めている」という”御言葉を、信ずる事によって、十字架で既に聖くされている新しい自分を受け取り続けていく”のです。
イザヤ43:4に「私の目には、あなたは高価で尊い」とあります。私共は”十字架によって、神の宝として永遠の滅びから買い取られたほど尊い者”なのです。そして、この”光栄に預かった者には、主の救いを伝える使命が与えられている”のです。
”その為に「祭司」「聖なる国民」として頂く事を熱心に求め、キリストを見、キリストの証人として頂き”歩んで参りましょう。