マ  ナ

出エジプト16章1〜35節
◆マナ 16:1 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。
16:2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。16:3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。あなた達は我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」16:4 主はモーセに言われた。「見よ、私はあなた達のために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。私、彼らが私の指示通りにするかどうかを試す。16:5 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」 16:6 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなた達は、主があなた達をエジプトの国から導き出された事を知り、16:7 朝に、主の栄光を見る。あなた達が主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
16:8 モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなた達に肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなた達が主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなた達は我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」 16:9 モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなた達の不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、16:10 アロンはイスラエルの人々の共同体全体にその事を命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。16:11 主はモーセに仰せになった。16:12 「私は、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなた達は夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなた達はこうして、私があなた達の神、主である事を知るようになる』と。」16:13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。16:14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。16:15 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなた達に食物として与えられたパンである。
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16:19 モーセは彼らに、「誰もそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、16:20 彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。16:21 そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。16:22 六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた。共同体の代表者は皆でモーセのもとに来て、そのことを報告した。16:23 モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられた事である。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」 16:24 彼らはモーセの命じた通り、朝まで残しておいたが、臭くならず、虫も付かなかった。 16:25 モーセは言った。「今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。16:26 あなた達は六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう。」 16:27 七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。
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16:31 イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。
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16:35 イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。

ヨハネによる福音書6章48−51節
私は命のパンである。あなた達の先祖は荒れ野でマナを食べたが死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


    
     マ  ナ

出エジプト16章1〜35節。中心聖句:ヨハネによる福音書6章48−51節.
                                       2007.3/4

 イスラエルの民は、恵みの地エリムで数日間過ごし、十分満たされた後、再び荒野の旅へと旅立ちました。そしてエジプトを出て2ヶ月目にシンの荒野へと入って行ったのです。しかし、この時既に、イスラエルの民の心には、食べ物に関する不満が鬱積していたのでした。

 かつてマラの地で水が苦くて飲めなかった時、民は神に祈るのでなく、モ−セに呟くという失敗をしました。また、ここでも同じ失敗をしたのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は肉の沢山入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに、あなた達は我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」とモーセとアロンに向かって呟いたのでした。

 それは呆れるほど勝手な呟きでした…奴隷の立場で鍋の肉をたらふく食べる事が出来た筈など無く、しかも鞭打たれる日々であった事を忘れて呟いたのでした。「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」の典型的姿です。神のお気持ちを思うと言葉がありません。

 そんな民に、神は「朝に主の栄光を見る」と言われました。”マナを与えると言う事”でした…続く8節では、「主は夕暮れに、あなた達に肉を与えて食べさせ」と言われたのです。この肉というのは、”うずらの肉”です。神は民の呟きの罪に対し、愛をもって応えられたのでした。神は、怒りと悲しみをこらえ、朝にはマナを降らせ、夕べにはうずらをおくられたのでした…”神は民の言葉を聴いておられる事を教えられる為”でした。

 しかしモ−セは、民に釘を刺す事を忘れませんでした。「あなた方の呟きは、私でなく神に対して語っている事なのだ。その証拠に、今からマナが降り、うずらが飛んで来る。この事こそ、主があなた方民の言葉を聞かれている徴だ」と…。

 翌朝,民は”主の栄光”を見る事となったのです。朝、目覚めると、宿営の周りの露が上がった後に、白い霜の様な、鱗の様な物があったのです。食べて見ると、それは蜜を入れたせんべいの様な味がする栄養豊かなものでした。人々は、その食べ物を見て「マン・フー=これは一体なんだろう」と言い…そこから、マナという名が付いたのでした。この”マナ”は、民がカナンの地に入る迄、”40年間、毎日、天から降り続いた”のでした。

 今も、この”マナ”が見られるそうです。アブラムシの一種が、ギョウリュウ科の低木の果実に穴を開けて汁を吸い、排出する黄白色の分泌物です。それは日中には溶けるものだそうです。ベトウィン族は、それを集めて焼いてパンの様な物つくります。しかし、それは6〜7月の季節物で、かつ、シナイ半島の1部の地域だけに限られているそうです。

 それが、聖書の言うマナかどうかは判りません。何故なら聖書のマナは、民の行く所に沿って毎日大量に降り。しかも安息日には止み、その安息日の前日に降ったマナだけは2日間保存する事ができたからです。

 何故、この時のマナは、日が昇ると溶け、翌朝になると虫がついて臭くなったのでしょうか?…それは”神の民が、命のパンに預かる姿勢を学ぶ為”でした。

 4節に「主はモーセに言われた『見よ、私はあなた達の為に、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。私は、彼らが私の指示どおりにするかどうかを試す』」とあります…”神というお方は、御子の十字架によって贖った者達を、何処までも見放さない一方、神が「アドナイ。エレ 主の山に備えたもう」事を信じているかどうかを試される御方”なのです。

 また、この”マナは、やがて与えられる霊的なパンを暗示していた”のです…ヨハネによる福音書6:32〜35に「イエスは言われた『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、私の父が天からの真のパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである…イエスは言われた「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢える事がなく、私を信じる者は決して渇く事がない」と言われました。

 天から降ってきたマナをイスラエルの民が食べた様に、”新しい神の民であるクリスチャンは、天の父なる神がお与え下さった霊的なパンであるキリストを食し霊の命に預かる”のです…それが、”礼拝や聖餐やデボーションで御言を食する事”なのです。ある先生は、「礼拝や日々のデボーションも、神の言を食べる様に聴くものである」と言われました。

 ”今から預かる聖餐も、信仰によって十字架で裂かれたキリストの肉体を食するように預かる”のです…そうした”霊のパンを食する姿勢が礼拝への姿勢をつくる”のです…そして、”そこで霊の命で生かされるかどうかが決まる”のです。

 先週祈祷会で、熊田和子さんというクリスチャンのフリーライターの方が証をして下さいました。熊田姉は、横田幸恵さんや、故、三浦綾子さんとも親交があり、また、ブラジル移民への宣教師として80年前に、ブラジルへ行かれた日本ホーリネス教団の牧師、物部赳夫福音師の伝記を出版された方です。私はこの物部師の伝記「私が共に行く」という本を読んで、忘れかけていた伝道魂を思い出させられ、涙と共に悔い改めへ導かれました。

 熊田姉は、ある時、南米伝道の取材をされた時から、神から南米宣教へと導かれ始めたそうです。初めは、理由をつけて拒んでおられたそうですが、ある時、抵抗できなくなり、抵抗の手を降ろして「神の言を聴きます」と祈った時に楽になったと言われました。その後、宣教に召される神の言が響いてくるようになり、神に強引に導かれ、「責任をとって下さる神に委ねて」ブラジルの隣にあるパラグアイに4年間行かれたという事です。

 帰国してから、今度は全く行く気が無かったブラジルへ導かれたそうです。ブラジルは移民後、百年が経っていますが、奥地には、日系1世や2世の方々が、今も移民時代の苦しみを胸に秘めて暮らしておられるそうです。彼らは、その癒えることの無い痛みの大きさゆえ、その痛みが判る人にしか思い出を話さないそうです。また生の日本語で福音を語ってくれる人を待っているのだそうです。

 熊田姉は、パラグアイという辺境の地にいたという事で、日系1〜2世の方々は心を開いて下さり、5年間、日系1世や2世の方々から、苦境の中の信仰の証を聞く事が出来。5冊の本を執筆する事が出来たのだそうです。帰国後、現地の状況を知る牧師から、「女性一人、ブラジルの奥地に宣教に行って無事に帰って来られたのは奇跡だ」と言われたと伺いました。

 私は、神の言に生きた熊田姉を見ていて、「この方は、神の言に生かされている方なのだなあ」と思わされました。

 ヨハネ6:48−51に「私は命のパンである。あなた達の先祖は荒れ野でマナを食べたが死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とあります。

 ”キリストを食する(信じる)者は永遠に生きる”…”日々、心の糧を頂くだけでなく、永遠の命まで頂く”のです。イスラエルの民は「私達を餓死させる為に救い出したのか!」と呟き、神を悲しませました。しかし”神は、民の呟きに耐えながら、神の民の信仰を養われる為、マナを与えられた”のでした。

 やがて”神は、独り子を十字架に架けられるという痛みの極みをもって、私共の罪を贖い、新しい神の民(クリスチャン)を生み出され”ました。”神は今、そのクリスチャンが、日々、命のパンとしてキリストと言う神の言を食するかどうか見ておられる”のです。再び、神の胸を痛めさせる事のないように、私共は、日々渇きをもって御言を食して参りたいと思います。