十字架で与えて下さった新しい命(十字架上の7つの言葉…その一)

十字架の上の7つのお言葉

第一のお言葉、ルカによる福音書23章34節。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」

第二のお言葉、ルカ23章39節以下。「十字架にかけられていた犯罪人の一人がイエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか…我々は、自分のやった事の報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪い事をしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われた」

第三のお言葉、ヨハネによる福音書19章26〜27節。「イエスは、母とその側にいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」

中心聖句:ヨハネによる福音書10章10〜11節
 「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


 
十字架で与えて下さった新しい命(十字架上の7つの言葉…その一)
                  ヨハネによる福音書10章10〜11節.2007.3/25

 来週は受難週です。そこで、今週、来週と2回に渡って、”主イエスの十字架上の7つのお言葉”について学んで参ります。主イエスは、神の独り子ですから、本当は人々に仕えられるべき王の王でした。しかし主は、愛する弟子達に、”十字架に架かる事を、羊と羊飼いの譬え”をもってお語りになりました。

 ヨハネ10:10〜11「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

 ”主イエスは、「私がこの世に来たのは、良き羊飼いとして来たのである、良き羊飼いは羊に命を与える。命を父なる神から受けて、羊に命を与える為に命を捨てる」”と言われたのです。

 主イエスは、一見、ローマ政府やユダヤ教の指導者達に殺された様に見えますが、主イエスは、「そうではない。私は自分の意志で命を捨てるのだ。それは、私が命を捨てて、神から命を受けて、羊に命を与える為である」と言われたのでした。”それゆえ主イエスは、十字架を目前にした時、逃げ出さずにゲツセマネの園で、汗を血のように滴らせながら祈られ、十字架へ向って立ち上がられた”のでした。

 ゴルゴタの丘に三本の十字架が立ちました。そして二人の強盗の真ん中に、主イエスが枕木を留めるような太い釘で釘づけにされたのです。午前九時に十字架に架けられ、正午頃、天地が真っ暗になり、三時に息が絶えられたのです。

 人々の嘲りと、激しい痛みと、恐ろしい神の審きを、避雷針が雷を受けるように、受け止めながら、そこで”主が吐露されたみ言葉にこそ、クリスチャンが心に留めるべき心”があるのです。今朝は、その”十字架の7つの言の内、最初の3つのお言葉”を学びます。

 第一のお言葉は、ルカによる福音書23章34節です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」…主イエスの十字架上の最初の御言葉がこれです。自分を十字架につけて嘲笑い、罵詈雑言を浴びせる人々の為に、「父よ、彼らをゆるして下さい」と祈られたのでした。

 主イエスは、十字架で尊い血潮を流されました。”出血”というのは、”人間にとって最も苦しい渇きを与え”ます。それゆえ”十字架は人類史上最も人を苦しめながら死に至らしめる極刑”だったのです。

 生きながら、最後の血の一滴が流れ出る迄、死に至る渇きを味わうのです…ですから十字架に架けられた人は、世を呪い、家族を呪い、敵をののしり、最後は正気を失って現実から逃れて死んだのでした。”主イエスは、真の神でありましたが、真の人でしたから、このお苦しみを、人として舐められたのでした。その中で、「父よ、彼らをゆるし給え」と祈られた”のです。

 これはもの凄い言葉なのです。主イエスの十字架の下で、番をしていたローマの兵隊に、「ああ、実にこれは神の子だった」と告白させた言葉だからです。主イエスが祈られた「父よ彼らを赦して下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と言われた「彼ら」は、宗教家達を指していました。彼らは、「やがて救い主が、この世に来られる」と教えていた人々でした。けれども、いざ救い主が、世に来られて評判になった時、宗教家達は嫉妬して救い主を十字架につけたのです。

 ここに”自己中心と言う人間の罪深さが表れている”のです…これは他の誰かでなく、”誰もが心の内に持っている、「神より自分が大切」という自己中心の罪”なのです。かつて主は、「友の為に自分の命を捨てる事、これ以上に大きな愛はない」と言われました。けれども、”主イエスの場合は、友の為でなく、自己中心の罪によって、自分に弓を引く人の為に、十字架の架かられ、「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈られられた”のでした。

 第二のお言葉は、ルカ23章39節以下です。

 「十字架にかけられていた犯罪人の一人がイエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか…我々は、自分のやった事の報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪い事をしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われた」のでした。

 当時は、家族の中から十字架に架けられる者が出たら、誰も付き合わなくなったそうです。親も子も兄弟もだそうです。ですから、”十字架上の罪人は最も孤独な存在”でした。そんな強盗が十字架上で、「おまえは今日、私と一緒に楽園にいる」という主の暖かなお言葉を聴いたのですから、どんなに救われたでしょうか。

 使徒パウロは、ロ−マ3:22で「即ち、キリストを信じる事により、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」と言いました…”旧約聖書は、律法を守る事によって天国に行こうとするもの”でした。ここで初めて”新しい福音が語られた”のです…「十字架は、罪を消し去るだけでなく、どんな罪人をも、信じる者すべてを義人として永遠の救いに入れてしまうものだ」と言っているのです。正に、”この強盗は、信じるだけで救われた初穂として天国に凱旋した”のでした。

 十字架上の第三のお言葉は、ヨハネによる福音書19章26〜27節です。「イエスは、母とその側にいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」…これは、主イエスが母マリヤに向かって言われた言葉です。

 また十字架の下に一人残った弟子ヨハネに向かって、「私の母の事を頼む」と託された言葉でもあります。その脇で兵士達が、イエスの着ておられた衣を剥がしてクジでとりあったのです。それは詩篇22篇18節「彼らは互に私の衣服を分け、私の着物をくじ引にする」の成就でした。

 当時、ユダヤ人の衣というのは、四角い大きな布で真ん中に穴が開いていて、それを首からスッポリ被り、紐で結ぶテルテル坊主のような着物でした。それでも当時は高価な物でした。ユダヤでは、息子の元服の時に、貯めた財をはたいで作ってあげたのでした。

 ですから、この光景を見ていた母マリヤの気持ちを思うと何とむごい事かと思います。ここに息子を痛み、また、母を案じる子の優しさと悲しみがあるのです。

 今朝は、”十字架の7つのお言葉の内の3つを学び”ました。これらは、それぞれ強盗、宗教家、母、弟子ヨハネに向けて語られた言葉でした。”主イエスの痛みと悲しみと暖かいお心”を感じます。

 主イエスは、私共にも「日々、十字架を負って私に従ってきなさい」と言われました。”十字架を負うというのは、愛する人、愛する教会の為、痛みと悲しみと自己犠牲の愛をもって生きる事”なのです。この週、”良き羊飼いとして、痛みと悲しみと愛で命を捨てて下さった十字架に心を開き、キリストが,私の羊と言って下さった私共に、神から受けて与えて下さった、新しい命を頂き、既に頂いている者は、その命に生き生きと生きる者として頂き”ましょう。