「呟く者から神の契約を信じる者へ」
出エジプト15:22〜27
◆マラの苦い水
15:22 モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。
15:23 マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。
15:24 民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
15:25 モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、
15:26 言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」
15:27 彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。
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Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
「呟く者から神の契約を信じる者へ」
出エジプト15:22〜27.2007.2/25
紅海の海の水を二つに分けると言う神の偉大な力を見たイスラエルの民は、タンバリンを打ち鳴らして踊りながら、聖書中、最古と言われる讃美をしたのです。こうしてイスラエルの民は、シュルの荒野に向かって旅立ちました。しかし、砂嵐と白い石灰岩の平原からのギラギラとした照り返しは想像以上にこたえ、皮袋の水も忽ち熱くなり喉を潤さなくなったのです。
やがて海は後方に退いて行き一面が荒野となりました。夜になると、民の心には明日への不安が芽生え始めたのです。そして22節に「荒野を三日の間進んだが水を得なかった」とあります。持って来た水が底をついてしまった時、民の心にあった感謝と喜びはあっという間に消え失せ、呟きが唇から出て来たのでした。
民の目は、オアシスを探して地平線に釘付けとなりました…そんな1日も終わろうとした頃、遙か彼方にオアシスを見つけたのです。そこは”マラという地”でした。彼等は、内心、「不信仰を口にしなくて良かった」と思いつつも、モ−セへの信頼を口にしながら泉に向って走り出しました。しかし、水を飲んでいた民の動作と表情が固まったのです…水が苦くて飲めなかったからでした。この苦い水は、塩水ではないかと思われます。
水が無いと分かっている間は、我慢するより仕方がありません。しかし、いったん安堵して緊張の糸が途切れ、その後で一気に絶望に落とされた時、民は呟きを押さえられなって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言ったのでした。
イスラエルの民は”此処で主に祈るべき”でした…”祈りに於いて自我が砕かれる所でのみ、人は共にいて下さる神を知る事が出来るから”です。そして、その絶望の中から、再び鷲のように舞い上がる力を受ける力を体験できるからです。しかし、イスラエルの民は、”モーセに愚痴った”のでした。
勿論、神を喜ぶ思いが、思いがけない困難の中で、あっという間に失われ失望に変わってしまう弱さは、全ての者が持っています。しかし”モ−セは主に向かって叫んだ”のでした…此処が、モ−セと民との違いだったのです。
主の弟子達も同じ弱さを持っていました。主イエスが2匹の魚と5つのパンで5千人を養われ、続いて4千人を養う奇跡をも行われました。弟子達は、こんな奇跡を目の当たりにしていたにも拘わらず、舟に乗り込んだ時、パンが1つしかない事でもめたのでした。そんな弟子達に対して主は、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか…『まだ悟らないのか』」と言われたのでした。
この「まだ悟らないのか」の”悟るは、かつての問題と、今の問題を、あなたの信仰で結びつけられないのか?”という事です。”かつての救いの経験が、現在の神への信頼とならない者は三日路の荒野で呟く”のです。
”人生の荒野は、私共が信仰を学ぶ学校”なのです。”信仰は、神の言に信頼する事”だからです…先日、福音学校で、安井師から、「救いを信ずる事は、神との契約(神から与えられた救いの約束の御言)を信ずる事」と学びました。
出エジ15章25〜26節「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目に適う正しい事を行い、彼の命令に耳を傾け、全ての掟を守るならば、私がエジプト人に下した病をあなたには下さない。私はあなたを癒す主である」…”神はここで救いの契約”をされたのです。
安井師は、福音学校で、「ユダヤ人は契約社会をつくった民族」と言われました。”契約”と言いますと冷たいイメージがありますが、”ユダヤ社会の契約は、神の自己犠牲の愛を土台とした契約”なのです。流浪の民族であったユダヤ人が契約社会になったのは、絶えず激動の波に翻弄され、”神との契約を土台に据えなかったら、信仰や、文化など民族のアイデンティティが維持出来なかったから”でした。
一方、”島国で鎖国をしていた日本は、変化の無い社会だった為、契約をする必要が無く、気持ちを察しあう事で社会がなりたちました。それゆえ、日本人は、ユダヤ人とは対極にあり、聖書という、神に与えられた救いの契約を最も理解できない民族になった”のだそうです。日本人が、激動の波に翻弄されたら、「民族のアイデンティティは3世代持たないだろう」と言われているそうです。
ブラジル移民が、日本語、文化、宗教が三〜四世代目にして崩壊している現実がそれを物語っています。しかし、激動の時代、日本も契約社会化してきて、聖書の救いの契約が理解出来るようになってきたそうです。結婚カウンセリングをしていて、「神の自己犠牲の愛をもって仕えあう事を誓うのが、結婚式の誓約です」と説明しますと、今の若者が誓約という契約を理解出来る事に驚いていましたので、日本人が契約社会化=ユダヤ人化しているという事に納得しました。
信仰の先人達を思う時、”この世の荒野の旅路を乗り越えて天国に辿り着いた者の中で、この世の荒野の中で、マラの苦い水に涙した経験の無い者はいないと気づかされ”ます…”自分の赦された救われたという感覚に土台を置くのでなく、神が御子の十字架を信じた者は赦されると約束された契約を信じて、待ち望んだ者だけが救いに預かり、また苦しみの中、神の言を神の救いの契約と信じた者だけが信仰を全うして天国へ行く事が出来る”からです。
私共が太平洋一人ぼっちの様な、苦しみと孤独の中で学ぶべき信仰は、この”御言に従順に聴き従い静に待ち望む事”なのです。26節をもう一度お読みします。「もしあなたが…神、主の声に必ず聞き従い、彼の目に叶う正しい事を行い、彼の命令に耳を傾け、全ての掟を守るならば、私がエジプト人に下した病をあなたには下さない。私はあなたを癒す主である」とあります…”主は、御言葉に聴き従う者に、祝福の契約をして下さった”のです。
”主は、失意の中で、主の救いの契約を信じたモ−セに、1本の木を示され、「それを泉に投げ込みなさい」と命じられ、苦い水を甘い水に変えられた”のでした。
マラの後、彼等が向かった”エリムの地”は、一転して、”12の泉と70本のナツメヤシが生い茂る恵みの地だった”のです。”12の泉は12部族全て…即ち、すべての”神の民を、命の水で完全に満たし救われる御方である事”を物語っています。また”70”は、”長老の数を指しています…これは、神は教会の役員をも聖霊で満たし導かれる事を指している”のです。
私共の”信仰の旅路にも、マラの失望と、エリムの安息と慰めがある”のです。”ヨセフも、牢獄の中でマラ(失望)を経験したのです。しかし、そこで共におられる主を見つめ続け、やがてエジプトの総理大臣になると言う安息というエリムを味わいました。モ−セも、ダビデも、エリヤも同じ”でした。
”ここに信仰の鉄則がある”のです…”紅海の水を二つに分けて、ファラオの軍隊から救って下さった主は、救い主の御言葉に聴き従って待ち望む者を救うと契約され、甘き水を備え救って下さった”のでした。私共の”信仰は、かつて私を救われた主は、今も救って下さると、主の契約を信じて待ち望む事”なのです。
この朝ご一緒に祈りたいと思います。「私共が苦難の地マラを経験する時、聖霊なる神よ、共にいて支え十字架の救いを見上げさせて下さい。3日路の荒野で呟いたイスラエルの不信仰からお守り下さい。この苦しみの先に、必ずエリム(安息)があると信じ、御言による主の救いの契約を静かに待ち望む者として下さい」と…。