主の過越

出エジプト記11:1〜12:42
中心聖句12:23
12:23 主がエジプト人を撃つために巡る時、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなた達を撃つ事がないためである。

ヘブライ人への手紙11章28節
11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。

 ヨハネによる福音書3章16節
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


    
           「主の過越」

      出エジプト記11:1〜12:42、ヘブライ人への手紙11:28、2007,2/11 

 奴隷生活を強いられ悲鳴をあげていたヘブライ人を救う為、神はエジプトの王ファラオに,次から次と災いを下しました。それでも頑なにヘブライ人を解放しないファラオに対し,”神は最後の災いを下す決意をされた”のでした。それは”過越という災い”でした。

 それはエジプト中の人と家畜の長子の命を断つという究極の災いでありました。しかし”神は、逃れの道をも備えられた”のです…”傷のない小羊を一匹ずつ用意して,その小羊の血を家の入口の2本の鴨居に塗る事をお命じ”になられたのでした。

 それは、ヘブライ人にとって、経済的に大きな〜痛みの伴う献げ物でした。ですから、”生ける神への信仰と、献身が問われた”のです。更に神は、「その血を抜いた後の小羊の肉を焼いて,イースト菌の入っていないパンと苦菜とを一緒に食べよ」と命じられたのでした。

 これは、急な旅立ちでパンを膨らませる時間が無い事と、荒野の旅での食生活をも暗示していたのでした。また、これは”信仰者の戦いの心構え”を物語ってもいるのです。ローマ11章4節の「私は、バアルにひざまずかなかった七千人を自分の為に残しておいた」や、エフェソ6章14節、「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け」は、”世の荒野を旅する信仰者の心構えと同じ”言葉です。

 神は,その夜,予告通りに,エジプト中を行き巡り、鴨居に血を塗っていない家の、人と家畜の初子の命を絶たれたのでした。前回の説教では、火山の噴火による地殻変動によって、二酸化炭素が地表近くの低い所を覆い、特別に一人用の低いベッドに寝かされていた長子だけが窒息したのかも知れないという説をご紹介しました。何があったにせよ、聖書が「神の霊が行き巡った」と記しているように、神が働かれたのでした。

 残酷すぎるようにも感じますが、これは、”生ける神と偶像の神々との戦いの締めくくりだった為、偶像信仰の虚しさを徹底的に示す必要があったから”でした。
 
 ヘブライ人への手紙11:28に「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子達に手を下す事がないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました」とあります…”神は香りを食し,民は血を抜いて焼いた肉とイースト菌の入っていないパンと苦菜を食した”のでした。

 何故、”過越の食事をして小羊の血を鴨居に塗る事が救いの徴”となったのでしょうか?…”当時の食事は、主人がお客に対し,一生涯,自分の全ての力で守り抜くと言う命がけの契約だったからでした…この過越の食卓も,神との契約だった”のです。”神は小羊の血を用いられてその契約を実行して下さった”のでした。

 先週、結婚式の後、次に結婚される方の、結婚カウンセリングを終えた時、女性の方が、「キリストが十字架に架けられる事によって、何故、私の罪が赦されるのですか?」と質問をして下さいました。感謝な瞬間でした。その時、この事をお答えしたのです。

 ”この出エジプトの時、民は、罪赦され救われる為には、命をもって償うしかなかったのです。罪は神の御前では、それ程重いものである事を、イスラエルの民は、この出エジプトの過越から、骨身に染みるように学んだのです。それゆえイスラエルの民は、毎年小羊の血をもって罪の赦しを祈り求めるようになった”のでした。

”この過越が、主イエスの十字架へとつながるのです…十字架で、神の小羊イエスが、全ての人の罪を一度限りで完全な贖いを成し遂げて下さった”のでした。

 救いは、幻を見たとか、異言を話せた等の神秘的な業を土台とするものではありません…それは恵みの一つでしかありません。”救いの御業に預かる道は唯一つ、「キリストが、十字架で血潮を流され

、自分が受けるべき審きを身代わりに支払って下さった(贖い)」と信じた結果、与えられるもの”なのです。この時モーセは、ヘブライ人の長老達を集めて、神から与えられた、審きからの逃れの道を伝えました。長老達は、そこで神がアブラハムに預言されておられた、「あなたの子孫はエジプトに行くが400年後、そこから出る」という”神の言を思い出し、モーセの言葉を信じ従った”のでした。

 民には,目に見える徴も保証も無かったのです…昔の事とはいえ、鴨居に血を塗る事によって救われるという事は,理解を超えた出来事だったのです…しかし”彼等は,御言に拠り頼み、救いを体験した”のでした。

 この体験は男性だけで60万人,総勢250万人以上の人を動かしたのでした。何故,血が災いから守ってくれるのか?…まだ誰1人として、その事を理解しないまま,御言を信じ委ねたのでした…この体験から”過越の祭りは大切に続けられ、1550年後の十字架へとつながった”のです。

 ”主イエスが十字架に架けられたのは、過越の祭りの日でした。神の小羊として十字架で新しい救いの契約を結んで下さった”のでした。

 過越の祭りは満月の日に祝われました。この夜も、豊かな水を湛えたナイル川が、満月の光に鈍く照らされながら静かに流れ、時も静かに流れておりました…しかし,この直ぐ後に、歴史的な事件が起こったのでした。

 12:30「大いなる叫びがエジプト中に起こった」とあります。突然,金切り声が響き渡り、静寂が破られたのです。門柱に血を塗らなかった家から、子供を失った親の号泣が聞こえ出したのでした。宮殿でも王子が死にました。とうとうファラオが神に降参する時が来たのです。

 ファラオは、モーセとアロンを呼び寄せ、12:31「さあ、私の民の中から出て行くがよい、あなた達もイスラエルの人々も。あなた達が願っていた様に、行って主に仕えるがよい」と言ったのでした。

 12:42に「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出す為に、寝ずの番をされた」とあります。主に守られ、奴隷から解放されたヘブライ人達の目は輝き、足は弾み、そして、顔には笑いが、舌には歌が溢れていたに違いありません…”神の力ある御腕を見たから”でした…これ以上の平安と喜びは無いのです。

 この時から1550年後、”主イエスも、十字架の前の夜,ゲツセマネの園で寝ずに祈られて、恐れに勝利されて十字架に向かって立ち上がられ、私共を罪の奴隷から、永遠の滅びの支配からお救い下さった”のでした。

 ”教会は聖餐を囲む共同体”です…”キリストの十字架の血潮によってが、神の審きが自分を過ぎ越すと信ずる群”なのです。ヨハネ3:16-18に「神は,その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永達の命を得る為である。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為である。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」とあります…正に、出エジプトの過越と同じ内容です。

 ”神が自分を愛して下さって、神の独り子を十字架に架けて下さった。キリストが十字架で流して下さった尊い御血潮によって、自分の罪が贖われると信ずる者は、神の審きから過越されるという新しい契約の言葉”なのです。

 先月最後の主日の午後、M姉が、このヨハネ3:16を信じて救いに預かりました。神の御目には、私共はキリストの血潮を浴びた者として見えているのです…それゆえ、神は今も、”神の小羊イエスの、十字架の贖いを信じる者を,御子の血潮の故に,永遠の審きから過越て下さる(救って下さる)”のです。