「人知を超える神の摂理」
出エジプト記1章1〜2章10節
1:1 ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。1:2−5 ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。
1:6 ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、1:7 イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。
1:8 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、1:9 国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。1:10 抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」1:11 エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。
1:12 しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、1:13 イスラエルの人々を酷使し、1:14 粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。
◆男児殺害の命令
1:15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。1:16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」1:17 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
1:18 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」1:19 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」1:20 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。1:21 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
◆モーセの生い立ち
1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
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2:1 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 2:2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。2:4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、2:5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。2:6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。
2:7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」2:8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。2:9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、2:10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。
中心聖句詩篇145篇19節
145:19 主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。
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Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
「人知を超える神の摂理」
出エジプト記1章1〜2章10節、
中心聖句詩篇145篇19節.2006.1/7
新年おめでとうございます。新年最初の主日礼拝です。新しい年は、旧約聖書の出エジプト記のモーセの生涯について、神の言から聴いて参りたいと願っています。
この”出エジプト記は、旧約聖書の中心の書”と言えます。何故なら、”イスラエル民族が、奴隷とされていたエジプトの地から、神によって助け出された事は、私共が、罪の奴隷から救い出される十字架の予表だから”です。また、”モーセ自身も、救い主イエス・キリストの予表”だからです。
今から三千三百年ぐらい前、エジプトは、ファラオという王に支配されておりました。当時、エジプトは権力、文化、経済の中心地だったので、多くの国の人々が集まっておりました。
このエジプトには、神の民ヘブライ人も住んでおりました。ヘブライ人は、ユダヤ人、イスラエル人とも言います。かつて、ヤコブの子供のヨセフが、兄弟達の妬みを買い、売り渡されたエジプトの地で、筆舌を絶する苦労を舐めながら、信仰のゆえに総理大臣にまでなり、神が見せて下さった夢により、エジプトを大飢饉から救ったのでした。
その功績ゆえ、飢饉に陥っていた、祖国イスラエルから、父ヤコブと兄弟や子孫達、七十人を招く事が出来き、その地に住み着いたのでした。
この時は、それから四百年の年月が経っていました。時代は移り、ヨセフへの恩を知らぬ者がエジプトの王になり、エジプト人も、イスラエル人に対して冷たくなっていたのでした。
一章の中に、”ヘブライ人”という言葉が4回出てきます。この、”ヘブライ人という呼び名には、「渡って来た者」という意味”があります。四百年経っても、”ユダヤ人は、渡って来た者達”と見られていたのでした。
新約聖書フィリピ人への手紙3章3節に、「私達の国籍は天にある」とあります…”キリスト者は天に国籍を持つ者達”です。ですから、”クリスチャンは、この世では、旅人であり寄留者である事を忘れてはならない”のです。この世の報いを求めて生きるなら、その人は、必ず天国というゴールから逸れて行くからです。
エジプトの地に住むヘブライ人は数は多くなり、エジプトの人口700万人の三分の一、230万人にもなっていたのでした。この時、エジプトを支配していたファラオは、ラメセス2世でした。エジプトでは代々、王をファラオと呼びますので、”ヨセフがいた頃のファラオとは関係の無い王”です。
ファラオは、もし戦争が起こり、ヘブライ人が敵側についたら国が転覆してしまうと考え、”ヘブライ人に苦役を課したのでした。ヘブライ人を弱体化させ、願わくば死に至らせる為”でした。こうして、”ヘブライ人は、エジプトの地が、安住の地でなく、祖国(天国の予表)こそ自分達が帰る地と悟った”のでした。
強烈な炎天下の中、ファラオは、”ヘブライ人に、ナイル川の泥に砂とワラを混ぜさせ、竈で焼いて出来た煉瓦で、倉庫の町二つを造らせました。もう一つ”農作業をさせた”ともあります。この言葉は、土木作業とも訳せるので、古文書から推察すると、運河を掘らせたと考えられます。そんな過酷な苦役の中、ヘブライ人達は神に助けを叫び求めたのでした。
神に助けられたヘブライ人は、弱体化する所か、意に反して増えていくのを見たファラオは、第二の命令を出しました。それは、「ヘブライ人に男の子が生まれたらその場で殺せ」と言う残酷なものでした。その残酷さのゆえに、2〜3ヶ月位しか続かなかったようです。
神を畏れていた助産婦達が、ファラオの命令に従わず、男の子を生かし、ファラオに「ヘブライ人の女は、皆、丈夫で助産婦が行く前に産んでしまうのです」と言ったからでした。
それでファラオは第三の命令を出しました。それは「男の子が生まれたら、ナイル川に投げ込め」というものでした。モーセが生まれたのは、ちょうどこの頃だったのです。
モーセの両親は、三ヶ月間、その子を隠していましたが、泣き声が大きくなって隠し通す事が出来なくなったので、パピルスの籠に入れ、断腸の思いでナイル川に流したのでした。姉のミリアムは、流され行く弟の後を追いました。
ちょうどその時、ファラオの娘が、侍従と共にナイル川で水浴びをしていて、その乳飲み子を見つけたのです。この王女は、父親が出した残酷な命令に心を痛めておりました。それゆえ、この子がヘブライ人であると知っていながら、自分の子供として育てようと思ったのでした。そして「水の中から私が引き出した」と言って、「引き出した」という意味の名、モーセと名付けたのでした。
それを見ていた十五歳の姉ミリアムは、神に知恵を与えられ、王女の前に進み出て、「赤ちゃんにお乳を上げる事の出来る人を呼んできます」と言ったのです。 おそらく王女は、その乳母が、実母であると気づきながら、実の両親であるアムラム、ヨケベデに、モーセを四歳まで預けたのです。モーセはそこで、神を信じる信仰と、ヘブライ人の心を教えられたのでした。
その後、王子として王宮で英才教育を受ていくのです。やがて、その教育が、出エジプトに於いて、砂漠の中で水脈の上を歩く等、様々な所で役に立っていくのです。
とても不思議な事です。”これを神の摂理と言う”のです…ファラオが「殺せ」と命令したヘブライ人の子供が、ファラオの実の子と共に育ったのでした。やがてモーセは、一緒に育った王子と対決し、ヘブライ人をエジプトから助け出すのです。”人知を越えた神の摂理の不思議さ”を思います。”出エジプト記には、人間の不条理を超えて、神の摂理とする神が描かれている”のです。
「不条理は、神を知る(体験できる)スパイス」という言葉を聴いた事があります…私共が、眠れぬ一夜を過ごす時、「神よ、どうして?」「どうしてこんな所を通過しなければならないの?」「どうして、今、自分は此処にいるのか?」という不条理を嘆き呻きます。直ぐには答えがでません。しかし、”主イエスにつながって、叫び祈り続けるならば、「神は私の叫びを聴いて救って下さった」と言える日が来る”のです…その経験が、神の存在を確認し、信仰を喜びとし、生きる力ともなるのです。
中心聖句:詩篇145篇19節に「主を畏れる人々の望みをかなえ、叫びを聞いて救ってくださいます」とあります。”神は、モーセの両親のアムラムとヨケベテの祈りを聴かれ、危機的な状況下にあったモーセを救い、人知を遙かに越えて、危機を神の摂理と変えられた”のでした…この”神の御手が、今年も、私共の上にも置かれ、今、自分達が神の摂理の中を通過している事を信じたい”と思います。