「御言葉に伴う主の徴」
            …年末感謝礼拝…

マルコによる福音書16章16〜20節
16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
◆天に上げられる
16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

◇結び 二

16:20 〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕           …燭火礼拝…


ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


           「御言葉に伴う主の徴」
            …年末感謝礼拝…
     マルコによる福音書16章16〜20節。2007年12/30.

 今朝は年末感謝礼拝です。この一年を振り返りますと、嬉しい事としてはY姉の受洗がありました。辛い事としては、U兄が、体調不良の為に横芝教会へ移られた事。また、突然のG姉の入院がありました。

 しかし、神は祈りに応えて下さいまして、今、姉と共に、年末感謝礼拝を献げる事が出来る事に感謝しています。

 毎年12月に、”過ぎし年を象徴する漢字”が選ばれます。今年は「偽」という字が選ばれました。食品の表示の偽装、原子力発電所の地震被害の不適正な報告、マンションの耐震偽装もまだ発覚しています。また年金問題など、生活や命に拘わる偽装のニュースの多さに驚いた年もありました。

 ”今は、本物と偽物の見分けがつかない時代”です。この年末感謝礼拝を通して、私共も信仰の真偽を顧み、来年の信仰の歩みにつながる事を願います。

 マルコによる福音書16章14節に「その後、十一人が食事をしている時、イエスが現れ、その不信仰と頑なな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言う事を信じなかったからである」とあります。

 ”主イエスは、弟子達の不信仰を叱られた”のでした。その理由は、マルコによる福音書16章16節です。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」…”救いに於いて問われるのは、主イエスを救い主と信じ、洗礼を受けているかどうかだけ”なのです。

 主イエスは、生前、御自分の事を、「私は救い主である。だから預言されている通り、十字架に架かり、3日後に復活しなければならない」と語っておられたのでした…ですから、”この時、主イエスは、主の復活を信じなかった弟子達を咎められた”のでした。

 ”救い(新生)”を、感覚や感情だけで捉えるのは非常に危険です。”救いの確信が揺れるから”です。”聖書は、「あなたは、主イエスを救い主と信じて洗礼を受けたのか?」とだけ問うている”のです。それが”十字架の救いの契約だから”です。

 また”聖書には、救われた者には、次のような徴が伴う”とも書いてあります。”それらの徴と照らし合わせて、信仰のずれを、悔い改めて軌道修正しますと、新年の歩みが、神と顔と顔とを合わせて歩む歩みとなる”と思うのです。

 マルコによる福音書16章17〜18節に「信じる者には次のような徴が伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」とあります。

*”救われた者の、第一の徴”は、「悪霊を追い出す事が出来る」事です。

 この”悪霊”が分からないと聖書が良く分かりません。”悪霊は、心を神から引き離す存在”です。「神を信じたいけど信じられない」という”不信仰”や、「神に従いたいけれども素直になれない」と言う”不従順”も、また、”汚れた思いも、みな悪霊の働き”なのです。

 また、”悪霊は教会の中の愛の一致を壊し”ます。こうして見ると、”救われた者も、如何に悪霊に惑わされているかに気づかせられ”ます。ですから、”キリスト者は、絶えず自分の心を、瞳のように守らなければならないのです。

 絶えず心に注意して、「悪霊よ退け、私の心から出て行け」と命じ、心を清かに保つなら、神の言が聴ける”のです。そうすると、”自分の本音と信仰が一体になり、どんどんキリストに似ていく事が分かる”のです。それは、”教会が真のキリストの躰として形成されていく一歩”なのです…”神の言に人を変える力がある”からです。

*”救われた者の、第二の徴”は、「新しい言葉を語る」と言う事です。原文では「新しい舌で語る」となっています。

 ”聖書は、「舌は火(悪)である」”と言います…”神を賛美していた舌で、人の悪口を言うから”です。”舌は躰の中で一番、罪を犯しやすい器官”だからです。ですから、「新しい言葉を語る」というのは、”救われた人の新しい心から出て来る言葉”なのです。

 イザヤ書50章4節に、「主なる神は、教えを受けた者の舌を私に与えて…。」とあります。キリストの教えを受けた者の舌です。新改訳聖書では、「弟子の舌」と訳されています。”救われた者の舌は、キリストの弟子の舌”なのです。

 ”ですから、クリスチャンは、毎日、キリストの御言葉を聴くのです。主の御声を聴かなければ、心の中からからキリストの言葉が出て来ないから”です。

*”救われた者の第三の徴”は、「蛇をつかむ」事です。良く分からない言葉ですが、”蛇は天地創造の所で、アダムを誘惑した存在”でした。”象徴的に解釈すれば、蛇は誘惑の象徴”なのです。”救われた人は、誘惑に支配される人から、誘惑に勝利する人=誘惑を掴む人に変らていく”のです。


*”救われた者の、第四の徴”は、「毒を飲んでも、決して害を受けない」事です。

 それはパウロが体験した事ですが、今は、”この毒を言葉の毒”と捉えてみます。”人は絶えず言葉の毒にさらされ”ています。”言葉の毒に傷つくと、人格が歪んだり、或いは影響を受けて汚れ”ていきます。けれども、”救われた者は、言葉の毒を受けても害を受けない”というのです。

 しかし、現実には、傷つくと害を受けてしまうのです。そこで、主イエスを見てみたいと思います…一番、言葉の毒にさらされたのは主だったからです。

 ”主は言葉の毒を受けた時、それらを聞き流し、朝早く祈り、神の言だけを聴き続けられた”のでした。そこにこそ「言葉の毒に勝利する道がある」のです。この”神の言だけを聴き続ける事”こそが、”私共の信仰の真偽が問われる所”でもあるのです。


*”救われた者の、第五の徴”は、「病人に手を置けば癒される」という事です。 私共は、愛する者が病んだ時、自然に祈っています。けれども、「もし癒されなかったら?」と言う不信仰と戦いつつ祈っている時があるのです。

 しかし聖書は、「大胆に信じて祈りなさい」というのです。”神は、信仰者に使命がある限り、責任を持って癒して下さる御方”だからです。今年、神はG姉を病の床から帰して下さりました。まだ使命があるからです。

 星野富弘さんや、レーナ・マリアさんのように、”障害を通して主の栄光を現す使命もある”からです。

 必ず言える事は、”信仰者には霊的な癒しが与えられる事”です。霊的に癒されますと、「主が与え、主がとられる」と、自分の人生を主に委ねる者と変えられるのです。その時、その人は、神が用意して下さっている、癒される以上の人生に預かれる”のです。

 マルコによる福音書16章19〜20節に、「主イエスは、弟子達に話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子達は出かけて行って、至る所で宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実である事を、それに伴う徴によってはっきりとお示しになった」とあります。

 ここに、”救われた者に徴が与えられる理由がある”のです…”神の右の座と言うのは、神の権威と力の座”です。ですから、”今、そこにキリストがおられ、神の権威と力をもって御言葉と共に働いて下さるから、救われた者には、御言葉に伴う徴が与えられる”のです。

 ”全ての問題の解決は聖書の中にある”のです。”現在は御言葉の飢饉”と言われます。そうなった原因は幾つかあります…けれども、”根源は、キリスト者が、御言葉と共に働いて下さる主イエスへの期待を忘れている”事にあると思うのです。

 ”本来、信仰者は、わくわくと期待して聖書を読む筈”なのです。”礼拝もわくわくするのです。主イエスが、教会が献げる、賛美と祈りと説教を聴かれ、献金という献身の心をご覧になっておられ、1人〜に御言葉をもって応えて下さる所だからです。

 今朝、一年を振り返り、来年も、”1人〜が、そして教会が、御言葉に働いて下さる主の徴を証できるように、共に祈りたい”と思います。