「一致によって成長する教会」
フィレモンへの手紙1〜21節
1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私達の愛する協力者フィレモン、
1:2 姉妹アフィア、私達の戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
1:3 私達の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:4 わたしは、祈りの度に、あなたの事ことを思い起こして、いつも私の神に感謝しています。
1:5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。
1:6 私達の間でキリストの為になされている全ての善い事を、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。
1:7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。
1:8 それで、私は、あなたのなすべき事を、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、 1:9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。 1:10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモの事で、頼みがあるのです。
1:11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。 1:12 私の心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。
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1:16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟である筈です。
1:17 だから、私を仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモを私と思って迎え入れてください。
1:18 彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それは私の借りにしておいてください。
1:19 私パウロが自筆で書いています。私が自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、私に負うていることは、よいとしましょう。
1:20 そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、私の心を元気づけてください。
1:21 あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。私が言う以上の事さえもしてくれるでしょう。
ecutive
Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
「受け入れ合う愛」
フィレモンへの手紙1〜21節、2007.11/25
今、私共は、”天国を目指す神の民”について学んでいます…天国の王は神です。言い換えれば、”天国は神が力ある愛で支配される所”とも言う事が出来ます。
今朝は、”奴隷と主人という身分を越えて、オネシモとフィレモンが、愛をもって受け入れあえるように取り計らったパウロの姿から、愛をもって受け入れ合う教会の姿”を学びます…”人は愛をもって受け入れ合う教会の姿から天国を垣間見る”からです。
フィレモンへの手紙は、1章だけの書です。使徒パウロから、フィレモンへ宛てて書かれた手紙であると共に、教会に向けて書かれた公の手紙でもあります。フィレモンは、パウロの知り合いで、今のトルコという国があるコロサイに住むクリスチャンでした。
150年前まで、”アメリカに奴隷制度”がありました。それは、奴隷の人権を認めず、奴隷をお金で売買する制度でした。”奴隷は主人の所有物として扱われ、家畜のような労働力として見なされていた”のでした。”人格を持つ者が家畜のように扱われていた”のです。
二千年前には,奴隷制度は当然の存在だったのです。まだ”社会制度や、経済が未熟だったこの時代、また人権意識や、福祉感も無かった時代、奴隷制度は、必要社会悪としてまかり通っていた”のでした。
今朝は、オネシモという一人の奴隷のお話をします。”オネシモは、フィレモンの奴隷”でした。”オネシモは、ある日、猛烈に自由が欲しくなり、フィレモンの家から逃亡した”のでした。
”オネシモという名には、(役に立たない者)という意味があり”ますが、事実彼は不誠実、無責任という人格だったようです。ですから、オネシモの逃亡は、自由を求めての逃亡だけでなく、お金をも盗んで逃げた可能性もあったと言われています。
オネシモは、逃亡後、トルコからヨーロッパのローマに辿り着きました。そんなローマの地で、”オネシモは、使徒パウロと出会った”のでした。
その時、”パウロは、宣教の結果、捕らえられ、裁判を待つ身として、自宅に軟禁されていた”のでした。そこへ、ローマの町でふらふらしていたオネシモが連れて来られたのです。
二千年前、奴隷が逃亡した場合、働かなかった分の日当を弁償しなければなりませんでした。オネシモは、その弁償額を聞いた時、初めて自分の逃亡罪の大きさを知り、”犯罪だけでなく、心の中にある罪罪を自覚した”のでした。
そして、”オネシモは罪人として謙って、使徒パウロから、イエス・キリストの十字架の罪の贖いを聴いた”のです…そして、”十字架の意味を知ったオネシモは、悔い改めの祈りをして、生まれ変わり(新生)を体験した”のです。
それゆえ、”パウロをして、オネシモは、「無益な者から有益な者になった」と言わしめた”のでした…これは、”神にとって有益な者となった”という事です。
その後、使徒パウロはオネシモを気に入り、”助け手になって欲しいと願うようになり、それが主の御心であると確信した”のでした。けれども彼は逃亡中の奴隷でした…”パウロは、何とかしてオネシモを奴隷の身から解放しなければならない事を示された”のでした。
間違った社会制度を改革する事は大切です…しかし、ロ−マの信徒への手紙13:1に、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威は、全て神によって立てられたものだからです」とあります。
正直、少々抵抗を感じる御言ですが、或る注解書に「全ての上に立てられている権威は、神の承認の下に立てられている…ただし、”権威には二通り或る。一つは、神が喜び積極的に認め立てている権威”であり、もう一つは、”神の寛容の下に(しぶしぶ)立てられている権威である」”と書いてありました。
”神は罪を犯した人を直ぐに滅ぼさないように、悪い権威も直ぐには滅ぼされない”御方なのです…”神の時が来るのを待っておられる”のです。
たとえば、16代アメリカ大統領のリンカーンは、何度も落選した後、やっと当選しました。実は、”そこに神の御計画があった”のです…”奴隷解放の時が来ていた”のでした。それゆえリンカーンは南北戦争に導かれて立ち上がったのでした。
彼は、”毎朝、執務室でのデボーションを重んじ、御言を通して、神の御心を問う事に専念した”のです。”極度に不利な戦況に陥った時にも、最初の確信に立ち続け、ついに勝利を手にし、奴隷制度の撤廃と奴隷解放を宣言した”のでした。たった150年前の出来事です。
そうした”神の時の為、教会は、社会に人権や社会福祉を造り、また教育を打ち立てたのです。そうした中、社会や経済も成熟し、人を労働力とせずに済む時代が来た”のでした…”この神の時が訪れ中、神はリンカーンを立てられた”のでした。
しかし、”奴隷制度の社会下にあった使徒パウロは、愛による受容を訴えてオネシモを奴隷から解放した”のです。”パウロは、今、自分にできる事、今、泣いている隣人の為に,自分の手を差し伸べる事をした”のでした。
最後に”使徒パウロが、どのようにしてオネシモを奴隷から解放したのか”をお話します。それは”愛によって受け入れ合う事による解放”でした。
パウロは、”オネシモを、ひとまず主人フィレモンの許に返す事にした”のでした…”愛によって受け入れて欲しいと言う手紙を添えて帰した”のです。
”神に悔い改めて救われ、人格的にも生まれ変わったオネシモ”でした。”悔い改めは、ただ「ごめんなさい」という事でなく、心の向きを神に変えて、主の御許に立ち返る事”です…ですから、”オネシモにとっての悔い改めは、人の前(主人)の前でも、悔い改めて完成する”だったのです。
実は、ここにも不思議な神の摂理があったのです…”パウロとオネシモの主人であったフィレモンは、主にある友だった”のでした。それゆえパウロは、フィレモンを信じて手紙を綴ったのです。
9〜17節に、「むしろ愛に訴えてお願いします…1:17 だから、私を仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモを私と思って迎え入れてください。」と書いたのでした。この手紙を受け取った”フィレモンは、喜んでオネシモを赦し受け入れ”ました。
この”パウロの手紙は、半ば愛の受容を強制する懇願の手紙”でした。しかし、これは、”全てのキリスト者に向けられた手紙”でもあるのです。
殉教者イグナシウスの手紙という資料には、エフェソ教会の監督オネシモの名前が登場します。もし同一人物なら、”罪が赦されて、神のお役に立つ者と変えられるのは、何と素晴らしい事か”と思います。パウロの時代、奴隷制度はなくなりませんでしたが、”パウロは、愛による受容を懇願し、オネシモを奴隷から解放した”のでした。
これは、”教会に向けられた手紙”でもあるのです。”教会は、悔い改めによって救いに預かった者達の共同体”です。”クリスチャンは、霊的に成長しますと、自分が十字架で預かった救いの恵みが、深く〜分かってくるのです。
それは、そのような自分を、神が赦し、受け入れて下さっている恵みを知る事”です。パウロは、そうしたクリスチャンに、「あなたも愛によって受容し合う者になって欲しい」と訴えているのです。”そうした姿こそ、この世に天国を証する教会の使命”なのです。