「天に積む宝」
ルカによる福音書12章13〜21節
12:13 群衆の一人が言った。「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14 イエスはその人に言われた。「誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうする事もできないからである。」
12:16 それから、イエスは譬えを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」
ecutive
Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
「天に積む宝」
ルカによる福音書12章13〜21節. 2007.10/7
先週から、新約聖書に移って、”天国を目指すキリスト者の歩み”について学んでいます。今朝は、主イエスが語られた「愚かな金持ち」の譬え話から、「天に積む宝」について学んで参ります。
1つのお話しをご紹介します…ある国の王様のもとに、面白いピエロがいました。何時も王様を笑わせていたピエロは、王様の大のお気に入りでした。
ある日、王様は、このピエロを呼び寄せて、「お前は、これから旅に出なさい。そして、お前より面白いピエロがいないか探して来なさい。もしいたとしたら、そのピエロは世界一面白いピエロだ。もし見つけてきたら沢山の褒美を与える」。
そんなわけで旅に出たピエロは国中探し回りましたが見つかりません。そんな折りお城から伝令が来ました。「王様が御病気になられました。直ぐにお戻り下さい」。
そこでピエロは直ぐにお城に戻りました。すると重体の王様が床に伏していたのです。王様はピエロを見て、「おう戻ったか。わしも、そろそろ永遠の旅に出る時が来たようじゃ」と言ったのです。
それを聞いたピエロはこう言ったそうです。「王様、その旅の準備は出来ておいでですか?」「準備?準備などしておらぬ。何をしたらよいか分からん」「そうですか。王様、ついに見つけました。あなたが一番おかしなピエロです…私は、王様のご命令で旅に出る時、様々な準備をしました。所が王様は、永遠の旅にでようというのに何の準備もなさっておられないのですか?…王様は真に、世界で一番面白いピエロです」と言った物語です…これは、”永遠の命に備えて生きなさい”というテーマで書かれたものです。
聖書に戻ります…ある豊作な年がありました。そこで、ある金持ちが、大きな倉を建てて作物を蓄えました。その金持ちは、「これだけ蓄えたのだから、どんな飢饉がきても大丈夫だ、もう何も心配せず長生きできる」と言って宴会をしたのでした。
神は、その金持ちに、「愚か者、今夜、お前の命は取り上げられる事になっている。死んでしまったら、お前の蓄えは誰の物になるのか。地上に幾ら富を積んでも、神の前に豊かにならない者(天国に宝を積まない者)は、死の前には無力になる」と言われたという物語です。
この譬えは、一見、「人は、いつ死ぬかわからない。死んだら終わりだ」と聞こえます…そうした教えは、さまざまな宗教も教えています。また誰もが思っている事です。こうした考えは、人生を投げやりにしてしまいます。ですから、”主イエスが言われたかった事は、もっと深い所にある”のです。
それは、主イエスが、この譬を語られるきっかけになった出来事を見ると分かります。
主イエスが、いつものように群衆に教えておられた時でした…群衆の中の一人が、声を上げて、「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と訴え出たのでした。
それに対して主は、「誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と答えられました。この人にとっては、遺産を巡る兄弟との争いを裁いて頂く事こそが救いであったのです。ですから、この主イエスのお答えに失望したのでした。
”主イエスが語っておられた救いは、罪の赦しによる霊的な救いだと言う事が、彼の心に届いていなかった”のでした。財産相続の争いは、何時も、何処にでもある事です。傍目からは愚かに見えます。けれども、自分がその争いに巻き込まれると少し話が違って来るようです…額の多少に拘わらず不公平だと腹が立つ様です。
主イエスは、ここで遺産相続の不公平を訴えた”男の怒りに、深い根を見抜いておられた”のです…それは、”貪欲という深い罪”でした。そこで主は、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうする事もできないからである」と言われたのです。
これは、”貪欲の罪に支配されている限り、人は永遠の命に至る生き方が出来ないという、主イエスの大きな警告”だったのです。
”貪欲の罪と言うのは、地上の物ばかりに関心を持つ事、もっとお金が欲しい。美味しい物が食べたい。社会的な地位や賞賛が欲しいと貪る事”です。欲そのもは悪いものではありません。ただ、”度が過ぎると貪欲の罪になる”のです。
では、”貪欲は、何故、罪なのでしょうか?”…その答えは、主イエスが語られた、”愚かな金持ちの暫の中にある”のです。ここで、”主イエスは、「人はやがて皆死ぬ…いつ訪れるかも知れない死を心に留めて生きないと、貪欲と言うの罪に支配され、死で全てを失ってしまう。だから、どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」”と言われたのです。
ここで、主イエスは、”「死」を語られながら、〈命〉に至る道を語っておられた”のでした…”死においても失われない、永遠の命を得る生き方”でした。
その”永遠の命に至る生き方”は、この”譬えの最後”にあります…「地上で幾ら富を積んでも、神の前に豊かにならない者(天国に宝を積まない者)は、死の前には無力になる」にある”のです。
”地上に宝を積む”と言う事は、地上の事のみに心を奪われ、地上に宝を積む生き事に、生甲斐を感じて命を燃やす事”なのです…しかし、”天国に宝を積む生き方は、貪欲と正反対の生き方”なのです。
私は若い頃、母教会の恩師から「人生で選択をする場面に立ったなら、損する方を選びなさい」と教えて頂きました。恩師御夫妻は、その様な伝道生涯を送られました。何故、”損をする選択が大切なのかと申しますと、その損をする道こそが、貪欲の罪から自分を守り、天国に宝を積む道になる事が圧倒的に多い”からです。
コロサイの信徒への手紙3章5節に、「地上的なもの、即ち、淫らな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」とあります…この御言は、キリスト者に向けて語られたものです。
キリスト者は、偶像礼拝こそしません。けれども、心に偶像をもっている時があるのではないか”という事なのです。それは、天国に宝を積む事よりも、地上の事ばかりに、心を奪われている事があります…欲情は勿論の事、財産を蓄える事や、地位や名誉を追い求める事ばかりに心を奪われる事”です。
もう一方の、”霊の命に生きているクリスチャンは、私を忍耐と愛をもって、受け入れて下さっておられる神・キリスト・聖霊に応えようと、喜びにより、自発的に、天国に宝を積む者です。
”キリスト者は、何時でも霊の命に生きる真のキリスト者に戻る事ができます…それは、”自分の内にある弱さに気づいた所で、襟を正して主の言を聴き、神の愛と恵みと憐れみをみつめ、思い巡らし、思い出し、体験し直して、死を超えて、愛する神の御許に帰りたいと、天国に宝を積む生き方へと軌道修正する事が出来る”のです。
神に愛され、神の国の世継ぎとされていると言う事は、もの凄い恵みに預かっている事です…私共は、共に、「天国に宝を積む生き方を求める者にして下い」と祈って参りたいと思います。