「タラントンへの責任」
マタイによる福音書25章14〜30節. 2007.10/14
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、他に五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、他に二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。他に二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
ecutive
Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
「タラントンへの責任」
マタイによる福音書25章14〜30節.2007.10/14
マタイによる福音書25章は、”「十人のおとめ」の譬え話から始まり、三つの譬え話が続いて”います。いずれも、”終末(世の終わりの主イエスの再臨)に関わる譬え話”です。
何れも主イエスは、「天の国は、また次のように譬えられる」という言葉で語り始められました…”天の国は、神が、神の愛と、神の力とをもって、完全にそして永遠に御支配なさる所”です。
その、”天の国(神の国)は、やがて永遠の天国で完全に実現します。けれども、この地上に於いて、キリストを信じた者の心の中に、生まれ成長するものなのです。
”心の中で、不完全ながら、神の愛と力の御支配を先取し垣間見られる”からです…ですから、”やがて来たる天国が分かり、その天国を待ち望む事が出来る”のです…”この譬えは、「その主の再臨に備えて人生を送りなさい」と言っているのです。
マタイ福音書25章14節〜には、”タラントン”という言葉が何度も出て参ります。これは”英語の夕レントの語源となった言葉”です。今、タレントという言葉は、芸能人を指して用いています。
英語のタレントという言葉には、「才能」という意味があります。確かに秀でた才能があるから芸能人になれるのだと思います。しかし、この”タレント”の語源となった、”タラントン”と言う言葉には、”「才能」という意味は全くありません”。これは”お金の単位”だからです。
譬え話に戻ります…”一日の労賃を一万円として換算”しますと、”1タラントンは、約六千万円という大きな金額”になります…”ある主人が三人の僕に、それぞれの力に応じて、五タラントン、二タラントン、一タラントンを預けて旅に出た”とあります。
と言う事は、この”主人は、それぞれ僕の力に応じて、タラントンを預けた…五タラントンを預った僕には、五タラントンを用いる力があった”と言う事です。”そこからタラントンが、才能や能力を現すタレントと言う言葉になっていった”のです。
”私共一人〜には、必ず神からタラント(賜物)が与えられている”のです。ここで大切な事は、”それは、その人に相応しい、その人が負う事が出来る賜物”だという事です。
歌謡曲にも「NO1にならなくてもよい。それぞれ特別なOnly1」という歌詞がありますが、”私と言う個性を持っている人間が、世界に1人しかいない事、救われて神の子とされたと言う事、また私共が、男である事、女である事、誰かの子である事、父であり母である事、それらは皆1タラントン”なのです…
”神は私にしかできない使命を託され、この地上に遣わされている”のです。
この”賜物という宝は、与えられて終わりではありません…キリスト者には、与えられたタラントン(賜物)を用いて、より豊かなものにし、神の栄光を現す(神を証する)という使命が託されているから”です。
また、”それこそが、キリスト者の人生の目的と意味”なのです。ですから、私共に問われるのは、”自分の人生が何の為にあると見ているか?”という事なのです。”
ここで気をつけなければならない事があります…それは、”才能とタラントン(賜物)とは違う”という事です。”才能は自分の物”です…そこから、”勝ち組負け組”という嫌な言葉が出て来たのではないでしょうか?
”自分の才能のおかげで豊かな生活ができると思う所から、勝ち組という傲慢な思いが生まれ、或いは、自分は才能がないと卑屈に思う所から、負け組という言葉が出てきたのです…それは才能を自分のものだと思っているから”です。
”才能と違い、賜物は神から与えられるものであり、外に向かっては神の栄光を現す為、内に向かっては教会を建て上げる為に用いられるもの”なのです。
”歌なら賛美に用い”ます。レーナマリヤさんは、障害を通して主の栄光を現しています。障害を補って余りある神の恵みに生かされている輝きを賛美で証しているのです。
スポーツも、神の栄光を現す為、神を証する為に用いられるのです。日韓ワールドカップ時に、韓国の選手が勝った時、グランドにひざまずいてお祈りしていたシーンを覚えておられる方もおられるでしょう。オリンピックの柔道でも、勝ったクリスチャンの韓国人選手は、やはりひざまずいて祈っておりました。
かつて私共が心が傷つく事を、主イエスが許されたのも、それを用いて神の栄光を現す事が出来るからなのです。
”主が与えて下さったタラントン(賜物)を、主の栄光の為に用いるには、祈りつつ、主に助けられていくしかないのです…そこには、高ぶりも卑屈も起こりえない”のです…そして、”その結果、教会が真のキリストの躰として建て上げられていく”のです。
ですから”タラントン(賜物)を預られるという事は、神に使命が託されている事、神に期待されている事であり、それを用いるかという課題をも担っている事”なのです。
また、”この譬えは、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ」と言う、主の厳しい言葉で終わっている事”を見逃してはなりません…この厳しい御言は、”主イエスが与えて下さった賜物を用いているかと、主が厳しく、私共に問い、深く関心を注いでおられる”のです。
ある牧師が、この譬え話の説教において、しみじみと「私共の殆どの者は、自分がこの中の一タラントンを預かった男だと思っているのではないか」と言われました。なるほどと思いました。
”多くのキリスト者が、「自分は小さな者だから」と殻に閉じこもって、自分に命を与えられ、自分を愛し、使命を託し、見守っておられる神に背を向けているから”です…それは、”自分の尊さに背を向けている”とも言えます…”そのままでは神の栄光を現す事が出来ない”のです。
この一タラントンを授かった男は言い訳をしました。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」と言ったのです。
「主人を恐れていたので、損して叱られる事を恐れ、タラントン(賜物)を隠して用いなかった」…それは「神が怖かった。神を愛していなかった」と言う事でした…その結果、”この男は、神を見上げて、神を信頼できなかったのです。 そして1タラントン(六千万円)もの大金を、他人のタラントンと較べて卑屈になった”のでした。
しかし、”2タラントン、5タラントン、10タラントンを預けられた者達は、そのタラントンを用いて、神の栄光を現すという厳かな使命が担わされている”のです。
そして、”やがての日、預けられたタラントンへの責任が天国で厳しく問われる”のです。ですから”タラントンは、神につながっていない人には負えない”のです。
もう一度申し上げます。”タラントンは才能と違います…神を見上げ、神を愛し、神に信頼しする者に対して、外に向かっては、神の栄光を現す為、内に向かっては、教会をキリストの躰として建て上げる為に、神が託されるもの”なのです…ですから、”レーナマリヤさんのように、人の目には、障害と見えるものさえも、神の目には豊かな賜物”になるのです。障害も、老いる事も、病む事も、神の賜物なのです。
一方、”神を愛さず、神に信頼せず、感謝しない人は、この1タラントンの男ように、託された一タラントンに不真実に生きる”のです。”一タラントンといえど大きなお金”です。自分を御存じである神が、今の自分に相応しい賜物を託して下さっていると信じ、人と較べず、その神を見上げ、神への感謝によってタラントンを握り、神の栄光を現す為に生き始める”のです。
”その事を主イエスは厳しく見ておられるのです。待っておられるのです。そして、そこに本当の自分らしい人生、豊かな人生が生まれてくる”のです。そして、”その様な者を神は信頼されて、更に豊かなタラントンを託される”のです。