「主イエスの変貌に支えられて」
ルカによる福音書9章28〜36節
◆イエスの姿が変わる
9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、 およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝 いた。
9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとして おられる最期について話していた。
9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝 くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三 つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つ はエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分から なかったのである。
9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中 に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が 雲の中から聞こえた。
9:36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈 黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。   
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           主イエスの変貌に支えられて

            ルカによる福音書9章28〜36節.2006.9/24

 先週は高知往復と秋期聖会の為にお祈りありがとうございました。台風による通行止めからは時間差で守られ、また司会も守られ、背後の祈りの支えを感じ感謝しています。また聖会の大川先生の説教は素晴らしく、また楽しく、かつ心を探られた時となりました。今朝は、共に主を新たに心にお迎えした者としてルカによる福音書の9章28〜36節に聴いて参りましょう。

 この直前の所で、初めて、「これから自分は、十字架に架けられ、3日目に甦る」と”メシア宣言”された主イエスは、”ペトロとヤコブとヨハネの3人の弟子を連れて標高2800mのヘルモン山か、標高600mのタボル山のどちらかの山に登り”ました…”ご自身の正体を教えられる為”でした。

 頂上に登られた主イエスは、”祈り始め”られました。

 9:29に「祈っておられる内に、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。”主イエスにとって、祈りは、神の御心=苦難の道を知り、その道を歩む力を受ける場”でした…”イエス様がそのような歩みをされたのは、罪無き神の子が、人々の身代わりに十字架に架かり、神の審きを受ける以外に、罪が贖われる道が無かったから”でした。
 
 9:29に「祈っておられる内に、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります…これは、”イエス様の本質が現された出来事”でした。”奇跡も変貌も、救い主としての、イエス様の本質を現す為のもの”でした。

 しかし、この”奇跡”と”変貌”には決定的な違いがあります…それは、”奇跡”は、主イエスが言動をもって主体で動かれましたが、”変貌”は、”主は完全に受け身”だったのです…”主イエスの変貌は、救い主であるイエス様の本質を顕す為、神が天から一方的に与えられた御業”だったのでした。

 次に、9:30〜31を見ますと、「見ると二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ…。」とあります。

 そこに”モーセとエリヤが現れたのです…水戸黄門の印籠を皆さん御存知だと思います。あの印籠は最初の放送の数回目から登場したと聞いた事があります。先日、再放送を見てまして、確かに印籠を出していませんでした。番組の中で、水戸光圀という本質を顕すの為にあの印籠が生み出されたのでした。

 ”モーセは神から十戒を授かった人物”でしたので、”律法の象徴”でした。一方、”エリヤは旧約聖書中、最大の預言者”だったので、”預言者の象徴”でした…この、”2人は旧約聖書時代を象徴する人物”でした。その”2人の姿が現れたのは、「イエス・キリストこそ、旧約聖書が預言しているメシヤ(救い主)であるお墨付きを与える為」”でした。

 ルカ9章31節には、「モーセとエリヤは栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」と3人が話し合っていた内容が記されています。それは”十字架の事について”でした。

”「最期について」という言葉がそれを示しています。原語のギリシャ語では「エクソドス」という言葉”が使われています…これは、”「出エジプト」という意味の言葉”です…”十字架は出エジプトの焼き直しであり、出エジプトを完成する、新しい出エジプトだと語り合っていた”のでした。

 詳しく申しますと、”モーセの出エジプトは、人々を奴隷から解放する為でした。一方、これから起こるキリストの十字架は、人々を罪の奴隷から解放するものゆえに、新しい出エジプトだと言った”のでした。(過ぎ越し+紅海徒渉+神の臨在と火と水+天国カナン)

 主イエスは、何度か3人の弟子を連れて祈りに行かれました…”弟子達の祈りの援護を期待して”でした。その1つがゲツセマネの祈りの時でした。しかし、その時も、この時も、”弟子達は祈りの戦いでなく睡魔と戦っていた”のでした。

 しかし、イエス様の変貌と,モーセとエリアの出現を目の当たりにしたペトロは、33節「先生、私達がここにいるのは、素晴らしい事です。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と。

 「この時、ペトロは、自分でも何を言っているのか分からなかったのである」とありますように…ペトロの発言には、”2つの間違いがあった”のでした。

 1つの間違いは、この「小屋」という言葉です。これは、「幕屋」とも訳せる言葉です…”幕屋は、神が御臨在される所で、神を礼拝する場”でした。ですから、この言葉には「ずっと、この神の栄光(臨在)の中に留まっていましょう」という願いがこもっていたのです。しかし、それは、キリストにとっては、「十字架への歩みを止めましょう」という誘惑として聞こえたのではないでしょうか?

 もう1つの間違いは、「3つの小屋」という表現です…この時、ペトロは、”イエス・キリストとモーセとエリアを同格に見ていた”のでした…しかし、”モーセ&エリアは、あくまでもイエス・キリストこそ、救い主と証言する為に現れた”のです…このように、”ペトロの言葉には信仰の未熟さがあった”のでした。

 ペトロは、まだ”そのイエス・キリストの変貌の意味が分かっていなかった”のでした。この後、主は2回目の受難予告をされます…「ご自身の十字架の予告と、あなた方も自分の十字架を負って私に従ってきなさい」という言葉です。この言葉を聴いた時、「彼等には何の事か分からなかった」という言葉にも、”弟子達の信仰の未熟さが示されていた”のでした。

 そんな弟子達でしたが、9:34−35「雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので弟子達は恐れた。すると、「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」と言う声を雲の中から聴いたのです…この”主の変貌を見た経験は、やがて彼等が、主イエスを救い主と信じた時に信仰を支えた”のでした。

 イエス様が公生涯に入られる時、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時にも似た言葉を神は語られました。「あなたは私の愛する子、私の心に叶う者である」…これは、”神が主イエスに語られた言葉”でした。
 しかし、この所の「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」は、「あなた方に言う、これは神の独り子、救い主だ。この人は間違いなく、あなたを救い、救い続けるから、この人の言葉に聴きなさい」という事です…これは、”神が弟子達と私共に向けて語られた言葉”だったのです。

 弟子達は、”この時見た主イエスの変貌に支えられ”、どんな迫害の中でも、「あの十字架に架けられ復活されたキリストこそ救い主…この救い主に聴き従っていけば間違いなく天国へ行ける」と信じ抜いて行ったのでした。

 イエス様が変貌させられた時、ペトロが睡魔と戦っていた事から夜だったと言われます…”神は闇の中でイエス様を輝かせ、「この人こそ、我が子、救い主だ」と救い主の本質を顕された”のでした…”私共の中にも闇があります。神が見えなくなってしまう絶望の闇”です。

 2日前、S姉が志し半ばで病で天に召されたとの報を受けました。昨夜、役員の方々とお通夜の前にお花をもって伺った所、御主人が「教会で葬儀が出来ず申し訳ありませんでした…こうして、教会の方々が来て下さって、妻も安らかに天に帰れると思います」と言って下さいました。

 この二日間、言葉を失う思いの中、骨身に染みて思った事は、キリストを救い主と信じ抜き、キリストの御声を聴き抜く大切さでした。

 ”神は、私共の心の闇の中でも、イエス様を救い主として輝かせて下さる”からです…”神は、キリストを救い主と信じて、キリストの御言葉に聴く者に、御言葉の成就をもって救って下さる”のです。