「神の喜びに支えられて」
ルカによる福音書15章1〜7節
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
先週、私共は、”救い主イエス・キリストから、「あなたの罪は赦された」と赦しの宣言を聴く事が、クリスチャンの喜びの源泉”である事を学びました。今週は、”救い主を心に迎えて、イエス・キリストに愛に生きて頂く事が、天国への唯一の道である事”を聴いて参ります。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
神の喜びに支えられて
ルカによる福音書15章1〜7節・2006年9月17日
9・11から5年が経ちました。テロリストの手によって、ニューヨークのツインタワーに旅客機が激突して、文明の象徴だった2つのタワーが崩壊した、余りにもショッキングな事件でした。受けた傷の深さゆえでしょう。
5年経つまで再現ドキュメント番組がありませんでした。そのドキュメント番組では、自分だけが助かったゆえ自分を責め続けてきた人。また、体が不自由な人々を助けようとして運命を共にした救助隊員、反対に、崩壊した瓦礫の隙間になり奇跡的に助かった隊員の話。
2749名の遺族の癒える事の無い悲しみが描かれておりました。見ながら二つの事を思いました。”一つは、命を助けるという事は、命を捨てる事と紙一重である事。二つ目は、神はどんな思いであの惨状を見ておられたのだろうか?”という事でした。迷子になった一匹の羊を探し抜く羊飼いの痛みと、この時の神の痛みが重なって見えたのです。
この”ルカ15章には、3つの、「失われた者の回復」”が記されています。”@、失われた羊の回復。A、失われた銀貨の発見。B失われた息子の回復”です。ここで語られているのは、「失われた者の回復を喜ぶ、神の喜び」です。
桑原教会の安井久子師が、キャンプや婦人大会で、息子さんの巌修養生が回心された時の証を涙ながらにして下さいました。「死んでいた息子が帰ってきた」と…。巌修養生の「参ったな」という顔が印象的でした。
そのような、”失われた者の回復の世界が、十字架と復活によって訪れた”のでした。しかし、そんな喜びの世界の訪れを認められないで、嫉妬と怒りをもって抗議する「正しい人達」がいたのです。ファリサイ人や律法学者でした。
今朝の物語は、徴税人や罪人達が、皆、イエス様の下に集まって来た所から始まります。徴税人は、当時、イスラエルを統治していたローマの手先になり、しかも規定の何倍も税金を徴収して私腹を肥やしていたので人々の憎悪の的でした…そんな人達が皆集まって来たのです。異様な光景だったと思います。
それを見た律法学者、ファリサイ人は、「この人は罪人達を迎えて、食事まで一緒にしている」と言ったのでした…当時、”食事は礼拝に準ずる大切な契約の場”だったと何度かお話しました。「食卓の主人がお客に対して、全責任を持ってあなたを守り抜く」という”命がけの契約”だったのです。
ここでは、”救い主が罪人達に対して、あなたを十字架で救う(回復する)という契約だった”のです。それ故、人を救いに導けない宗教家達の反感を買ったのでした。
”その批判を聞いた主は、失われた羊の譬を話し始められた”のでした…この所は、原文では緊迫感のある文体で書かれています。”イエス様は父なる神の御心と、御自身の地上の使命を話す時が来た事を悟られ緊張された”のでした。
イエス様は言われました。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか?」と。
原文を直訳しますと、「九十九匹を残して、迷い出た一匹に向かって、その一匹の為に探さない筈はない。例外はないであろう」です…不合理な言葉ですが、これは、”失われ行く者を痛む神の愛(父の愛)からほとばしり出た不合理な言葉”だったのです。
パレスチナ地方の羊飼いは、夕方になると、羊を一匹〜観察し、栄養状態や怪我をチェックします。羊は弱い動物だからです。羊は人間との出会わなかったら絶滅していたと言われます。”羊は武器を全く持たない動物”です。牙も爪も角もなく、足も遅く、目も悪く、方向音痴ときているのです。ひっくり返ったら自力で起きあがれず、鳴きながら力尽きて死んでしまうのだそうです。
英語では、”羊は複数でも単数形で書かれます”…何故なら、”一匹では生きていけない為、何時も一つ群で行動するから”だそうです。
ここに出て来る”羊飼いは、そんな羊の弱さを知っているので、はぐれた羊の危機と不安が分かり、じっとしておれなかった”のでした。
この”羊飼いはイエス様”の事なのです…”この譬えは、「羊が人間の保護の下に置かれなければ生きていけないように、あなたも神の保護が必要だと認めて、主を求めなさい」と語っている”のです。
ダビデ王は、王であるにも拘わらず自分の弱さを認め、詩篇23篇で信仰告白しました。
「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく。私を正しい道に導かれる。死の陰の谷を行く時も私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖。それが私を力づける…」。
しかし、多くの人は、”自分の弱さを認めません…そして、自分が霊的に死んでいる事にさえ気づかない悲惨な中にいる”のです。
でも、”神の下に立ち返った者は、神の喜びが自分に注がれている事を知る事が出来る”のです…失われた羊を見つけ出した羊飼いは、「友人を集めて、喜んで欲しい。悔い改める必要のない99人についてよりも大いなる喜びが天にある」と言ったのでした。”徴税人や罪人達に囲まれたイエス様は、この時、天の父なる神の大いなる喜びに満たされていた”のです。
ネヘミヤ8:11に「主を喜び祝う事こそ、あなた達の力の源である」とあります。原文では、意味が逆で「主の喜びは、あなたがたの力です」なのです…「主に喜ばれた者が、主を喜ぶ事は一対だからでしょう」
失われた銀貨の回復では、見つけた女性も「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言いました。放蕩息子の帰還を喜んだ父は、真面目に働いて来た自分より、放蕩してきた弟の帰還を喜ぶ父にふて腐れている兄に対して、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言ったのです。
私共も、失われた者の回復を,喜ぶ神と共に喜ぶ事を求められているのです…”私共は礼拝の場で、天を見上げる時、父なる神の下に帰った自分やこの教会の群れを、大いに喜ばれている神の喜びを見上げましょう…神が自分を喜んで下さる事を知る時、人はそこで力を受け、立ち上がって行く事が出来る”のです。
先日、共に礼拝を献げた事のある姉妹から、「明日、手術をしますのでお祈り下さい」というメールが届きました。癌の疑いもあるという事で、「神を見失わずに、手術を受けられますように」とお祈りしていました。”私共が暗闇に覆われてしまう時、そこで自分が神に立ち返った事を喜んで下さっている、その神の喜びが力となる”のです。