「真の審き主」
ヨハネによる福音書8章1〜12節
8:1−2 イエスはオリーブ山へ行かれた。 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が 皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3−6そこへ、律法学者達やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れ て来て、真ん中に立たせイエスに言った。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりまし た。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。所で、あなたは どうお考えになりますか。」。イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったので ある。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなた達の 中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 8:9 これを聞いた者は、年長者か ら始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人達はどこにいるのか。誰もあなた を罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。 行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
8:12 イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「真の審き主」
ヨハネによる福音書8章1〜12節,2006・8/6
今朝は、神の言葉である聖書が語る”姦淫の女の物語”を通して、”主イエスこそ、愛によって罪を審き、罪を赦す事の出来る、真の救い主である事”を学んで参ります。
本日の出来事は、朝早く神殿の境内に集まってきた人々に、主イエスが教え始められた時に起きました。突然、静寂を打ち破って、男達の怒鳴り声や、女性の悲鳴が響き渡りました。人々があっけにとられて見つめた先には、殺気だった律法学者やファリサイ人達と震え怯える一人の女性がいたのです。姦通の現場を押さえられた女性でした。
時は仮庵祭の時でした。祭りの時には性道徳が乱れます。ブラジルのリオのカーニバルの後には、私生児が沢山生まれるそうです。祭りの時に、姦淫の現場を押さえる事はたやすかったと思われます。
律法学者やファリサイ人達は、この女性を真ん中に立たせて、「先生、この女は姦通している時に捕まりました。こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。所であなたはどうお考えになりますか?」と簡易裁判を始めたのでした。
私共は、ここに、”人が人を裁く危険を見る事が出来ます。人が愛無く人を審く時、正義を持って人(心や人権)を殺してしまう危険”です…現代の刑法は、被害者や遺族の人権を軽視し、加害者の人権ばかり尊重していると言われます。確かにそう思いますが、そうなってしまったのには原因があるとも思います。
権力者が、人々を押さえつける為、見せしめに、犯罪者の人権を無視した重すぎる刑罰を科してきた歴史です。それは、ここの審きにも言える事です。この女性は、大勢の人々の射るような裁きや好奇な視線にさらされ、生き地獄に置かれていたのでした。
泥棒にも三分の理という言葉がありますが、どんな罪にも犯すに至った背景があります…彼女が罪を犯したのは、恵まれない生い立ちゆえに、愛に飢えて異性へ依存していたのかも知れません。
或いは、金銭的な困窮ゆえだったかも知れません。もしくは、今裁かれている通り、欲望から姦通の罪を犯したのかも知れません。それにしても、”一人の人が死刑の宣告を受けるのですから、弁明の機会は与えられるべきだった”と思います。
律法学者やファリサイ人達は律法によって、罪を犯した女性を裁きました。しかし、”律法の愛の心を忘れていた”のです。
律法は元々、神様が愛する人間を守る為、与えて下さったものでした。その律法の心を主イエスは言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ…自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」。
”人が律法を通して、神と自分、そして隣人を愛し大切にする事を守り切れない事は旧約聖書の歴史が証明”しています。しかし、”律法は良いもの”なのです。
先日、祈祷会で、ある姉妹が、「私は厳しい審きが書いている旧約聖書を怖く感じていました。先日、申命記を読んでいて、厳しい審きの言の後にあった愛の光の言葉に出会い、旧約聖書を通して罪への神の厳しさが分かって、十字架の愛が分かるようになると気づきました」とお話下さいました。
律法は人を福音に導く養育係なのです…自分が律法の愛の掟に生ききれないものである事を教え、十字架でありのまま赦され受け入れられる恵みを教えるものだからです。
この時、宗教家達は、6節に、「イエスを試して、訴える口実を得る為にこう言ったのである」とあるように、”律法の愛の心を忘れて掟だけを重んじていた”のでした。
こうした律法主義をイエス様は否定されたのでした。そして、”自分達の権力を守る為、律法を人々を縛る道具としていた”のでした。あまつさえ、”キリストへの妬みゆえ、主を排斥しようと神に与えられた律法を用いて、律法の主を罠にはめた”のです。
では、それはどんな罠だったのでしょうか?…一つは”政治的な罠”でした。当時、”死刑の権限は支配国のローマのみにあり”ました。もし、主イエスが「殺せ」と言われたなら、”ローマの法を無視する危険分子として処罰される”のです。
もう一つは、”宗教的な罠”でした。主イエスが「許せ」と言われたなら、”モーセの律法を無視する反律法主義者と烙印が押されてしまい、救い主としての選手生命を失う事”になるのです…逆に「殺せ」と言われた場合は、これ迄「人を赦し、人を愛しなさい」と言い続けてきた”主イエスの教えの全てが無に帰する”のです。
主がどう答えられても、”主イエスを陥れる事が出来る完璧な罠”でした。
さて、そんな絶体絶命の中、愛の無い世界を見つめておられた主は、どんな反応をされたのでしょうか?…”主は、突然かがみ込んで地面に何かを書き始めた”のでした。思いもしない主イエスの行動に人々は見入りました。或る人々は勝利感に浸りながら、持っていた石を握りしめていたかも知れません。
もう一箇所、主イエスが沈黙される場面があります…”十字架の判決を受ける裁きの時”でした。実は、”主イエスの沈黙は対話の拒否・神の審きを意味している”のです。”主は人の罪の醜悪さに顔を背けられ審かれていた”のでした。この前にあった五千人の給食の奇跡の後で、主イエスは、御自身の事を、”命のパンとして宣言”されました。しかし、”人々は主を受け入れなかったばかりか、命のパンである主を排斥しようと神の律法を用いて罠にかけた”のでした。
しかも、それは、”一人の女性を死に至らしめる罠でした…主は、この罪深さに対して顔を背け沈黙された”のです。
キリストが十字架に架けられた時、全地は暗くなったとあります…日食という説明を聞く事がありますが、過越の祭りの時は、地球を挟んだ太陽と月の位置が180度反対ですのでありえません。これは光なる神が、余りの罪に対し、痛んで顔を背け裁かれていた事を現しているのです。
教会でも、「キリストが遠く感じる時、キリストの沈黙を感じる時がある」とお聞きする時があります…”試練や迫害の中、神は沈黙されて、神を信じ抜く事、神の言に聴く事を教えて下さる事があります”。しかし、”神の沈黙の理由の一つに、審きがあるのも確か”です。その事を、私共は心に深く刻まなければなりません。
おもむろに主イエスは立ち上がりました。ここから、”真の審き主の、愛の審きが始まる”のです。主は言われました。ヨハネ8章7節「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなた方の中で罪の無い者が、まずこの女に石を投げつけるが良い」。
すると、”罪の自覚が深い高齢者から若者へと、一人二人と去り始め、女性一人残して誰もいなくなった”のでした。或る説教者は「この女性だって、人々が去ったその後で、足音を忍ばせていけば出て行けた筈だ。それなのに何故出て行かなかったのか?…この女性は、主イエスだけが自分を真実に裁く事が出来る御方だと悟ったからだ」と言いました。”この女性は、主のお姿に真の裁き主を見た”のでした。
そんな女性に対して、主イエスは、ヨハネ8章11節「私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われたのです…罪を審く事が出来る唯一の御方が、「私も罪に定めない」と言われたのでした。
これは、「罪を問う必要はない」と言う言葉ではありません…”神の赦しは、神が罪を甘く見過ごされる事によって与えられるのではない”のです。反対です。”神は決して罪を見過ごす事が出来ない御方です。誰かが身代わりに、神の厳しい罪への審きを受けて下さる事によって…審きを受けて下さる事を貫いて下さって、初めて神の赦しが与えられる”のです。
勿論、それは”十字架”です。この後、”十字架の主を見た女は、その時、主が自分の身代わりに神の審きを受けられていると悟り、そこで改めて自分の罪の重さと、「私もあなたを罪に定めない…もう罪を犯してはならない」と言われた主の言葉の重さを知った”に違い有りません。
”主が、どれ程痛み,罪を覆って赦して下ったかを知った時、この女性は、主の御前で罪を犯せなくなった”のです…それは弱さのゆえ、思わず犯してしまう罪が無くなる事ではなく、”悪意をもって罪を犯す事が出来なった”と言う事です。
”私共も日々、「十字架を自分の罪の為であった」と仰ぎ見る中で、神の罪への審きの厳しさと、赦しの深さを繰り返し知って行く”のです…そして、それこそが、”私共がクリスチャンとして生きて行く道”なのです。