見えるようになる道

ヨハネによる福音書9章11−37節
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」

9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
9:14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
9:15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、私の目にこねた土を塗りました。そして、私が洗うと、見える ようになったのです。」
9:16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから 来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行 うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。
9:17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、 いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
9:18-19 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるよう になったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼 び出して、尋ねた。「この者はあなた達の息子で、生まれつき目が見えなかったと言 うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」
9:20-21 両親は答えて言った。「これが私共の息子で、生まれつき目が見えなかった事 は知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。 誰が目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。 もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
9:22-23 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人達は 既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めて いたのである…。
9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で 正直に答えなさい。私達は、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っている のは、目の見えなかった私が、今は見えるという事です。」
9:26-27 すると彼らは言った。「あの者はお前にどんな事をしたのか。お前の目をどう やって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話したのに、聞いて下さいませんでした。 なぜまた聞こうとなさるのですか。あなた方もあの方の弟子になりたいのですか。」
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9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私達は承知しています。しかし、神 をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
9:32-33 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これま で一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたのでなけれ ば、何もおできにならなかった筈です。」
9:34-35 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と 言い返し、彼を外に追い出した。 9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞 きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9:36-37 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのです が。」 9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話して いるのが、その人だ。」9:38-39 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁く為である。こうして、見えない者 は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
 
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
見えるようになる道

 ヨハネによる福音書9章11−37節.2006年8/20

 先週は、イエス・キリストは、闇から解放して下さる命の光である事を聴きました…今朝は、”その盲人が、だんだん目が見えるようになっていったプロセスから、霊の目が開かれていく”と言う事について学んで参ります。

 この生まれつきの盲人は、イエス様から、こねた土を目に塗って頂き、「シロアム(遣わされた者)の池に行って洗いなさい」と言われたのです…彼は御言葉に従って、1q33段の階段を必死に降りて行きました。その従順故に、”生まれつきの盲人の癒し”という、この世で初めての奇跡を体験したのでした。
 
 それは、”旧約聖書のイザヤ書29章18節の救い主が到来した時の預言の成就でした。「その日には…盲人の目は暗黒と闇を解かれ見えるようになる」。

 この盲人の癒しの奇跡が、どんな時に起きたかと申しますと、”仮庵の祭り”の時でした。”神の御業は、神が計画されている時に起きる”のです…このキャンプの前に祈っていた時、イザヤ32章15節「ついに、我々の上に霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり園は森と見なされる」が与えられました。

 前夜、お泊まり下さった桑原牧師と家族と共に、キャンプに聖霊が臨んで下さる事を祈り求めました。土居教会からも出席された18名の方と共に、聖霊に用いられた桑原牧師の説教や鎮目さんの賛美を聴き、主のお取り扱いを受け、この群の2名の方が、イエス様を受け入れられました。どうぞ悔い改めの伴う救いに至り、洗礼の実を結ぶ事が出来ますようお祈り下さい。

 このように、神様は、神の時に御業を行われるのです…この”仮庵の祭り”は、”旧約聖書時代の出エジプトを記念する祭り”でした…奴隷として虐げられていたエジプトの地から、神様が数々の奇跡をもって、イスラエルの民を救われたのが出エジプトでした。エジプトから脱出した民は、神に導かれてシナイ半島を40年間旅したのです。そして約束の地イスラエルに入ったのでした。

 ”その荒野の旅を、人々は、この仮庵の祭りで追体験した”のでした。荒野で一番困ったのは水の問題でした。その苦しみを思い起こす為、毎朝、シロアムの池に降りていき、黄金の桶で水を汲み、犠牲の供え物と共に祭壇に水を注いだのでした。

 同時に、”旅路を火の柱で導かれた生ける神を、火を灯して思い起こしたのです…民は4本の燭台に火を灯して、その前で主の救いを踊り喜んだのでした。こうした”仮庵の祭り”の時に、”主イエスは御自身を「生ける水」「世の光」として宣言した”のでした。それは,”イエス・キリストこそ、命の水(愛)下さる救い主であり、人を導く生ける神であるという宣言”だったのです。

 ですから、「シロアム(遣わされた者)の池に降りて行きなさい」という主イエスのご命令は、「さあ、ついに神に遣わされた救い主が訪れて来た。さあ、期待を持って救い主の所に行きなさい」という事だったのです。

 ”盲人が、主のご命令に従った時、「目が開かれた」”のでした…原語のギリシャ語では、「上を見るようになった」とも訳せます。この盲人は、目だけでなく、霊の目も開かれ 「救い主が見える様になった」のでした。

 38節に、「主よ、信じます」と言って」とあります…これは、”主イエスに対する初めての信仰告白”です…”彼はひざまずいた”のでした。これは,”礼拝の心の現れ”です。”イエス様こそ、救い主と分かって
、「主よ」と呼ぶ時、人はひざまずかずにおれなくなる”からです。このように、”霊の目も開かれていった”のでした。

 この癒しは”闇に支配されているクリスチャンの霊の目が開かれている過程も語っているのです”…「えっ、クリスチャンも闇に支配されているの?」と思われた方がおられるかも知れません…そうなんです。”主を信じている者でも、主を見上げられない闇を通過する時があるのです。

この奇跡は、そんな闇の中で、どのようにキリストが世の光となって下さるか”を物語っているのです。

 そこで、盲人の霊の目が開かれていく過程を見て参ります…ファリサイ派の人々から「どうしてお前は見えるようになったのか?」と聞かれた盲人は、15節では、「あの方が…」と呼んでいるのです。

 この時、”主イエスを救い主と証しする事は、ファリサイ派を敵に回すこと=世を敵に回す事になったから”です。ですから、息子の目を癒して頂いた両親も、ファリサイ派に対して「どうして見えるようになったか分かりません…本人に聞いて下さい」と恩人がイエス・キリストである事を語る事が出来なかったのでした。言ったのでした。しかし、癒された盲人の霊の眼差しは更に開かれていくのです。

 ファリサイ派の質問が続きます。「お前はあの人をどう思うのか?」その問いに対して、「あの方は預言者です」と言うようになったのです。「主イエスは、私の目を開けて下っただけでなく、神に触れさせて下さった預言者です」と言ったのでした。”信仰告白が一歩前進している”のです。

 25〜27節「唯一つ知っている。目の見えなかった私が、今は見えるという事です…あなた方もあの方の弟子になりたいのですか?」…つまり、「私は、あの御方の弟子のつもりです」と堂々と言っているのです。驚くべき、”変化”です。この、「私は、唯一つの事を知っている。私はキリストに変えられた」…”この証しこそが、信仰の根幹”なのです。

 しかし、ファリサイ派は、更に敵意に満ちた質問をたたみ掛けます。盲人は、それに対してこう答えました。

「あの方が何処から来られたか、あなた方がご存じないとは、実に不思議です。あの方は、私の目を開けてくださったのに。神は罪人の言う事はお聞きにならないと、私達は承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言う事は、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるという事など、これまで一度も聞いた事がありません」

 これは、「かつて聞いた事もない癒しが私の身に起きた。これは、あの御方が神の御心を行っている義人だからです」と命をかけて証した言葉なのです…その結果、”彼は外に追い出されてしまった”のでした。

 ”外というのは、礼拝から破門され、ユダヤ社会から村八分にされる…即ち、社会から抹殺される”事でした。それは、この福音書が書かれた時代の教会も体験していた事だった”のです。
 彼が外に追い出されたと聞かれたイエス様は、身を隠しておられたのに、御自分の方から盲人を捜し当て、「あなたは人の子を信じるか?」と言われたのです。

 「人の子」というのは、”救い主の事”です。「あなたをさわり癒した私こそ、あなたが天的な預言者と言った私こそ、救い主なのだ」と直接語られたのでした。その時、”この生まれつきの盲人は、このお方こそ、救い主だと気づいた”のでした。正に、”主イエスこそ救い主と気づく事が信仰”なのです。

 ”自分を覆っている闇の中で、共にいて下さるお方こそ、世の光(救い主)と気づく事が信仰”なのです。

 そして,それこそが、”見えるようになる道”なのです。11節に「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」とありました。

 ”盲人は1qに及ぶ、33段の階段を降りるという、主の過酷なご命令に愚かな迄に従って、世の光による闇からの解放を体験した”のでした。「私共も、暗闇の中で、御言葉に聴き従う時、私はただ一つの事を知っている。共にいて下さっていた主イエスが光を下さった」と証しする者と変えられていくのです。