闇から解放して下さる命の光

ヨハネによる福音書9章1〜12節
9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯し たためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。 ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来 る。すると、だれも働けなくなる。
9:5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
9:6 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に  塗って言われた、
9:7 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そ して見えるようになって、帰って行った。
9:8 近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った、「この人は、すわ ってこじきをしていた者ではないか」。
9:9 ある人々は「その人だ」と言い、他の人々は「いや、ただあの人に似ているだけだ」と言っ  た。しかし、本人は「わたしがそれだ」と言った。
9:10 そこで人々は彼に言った、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」。
9:11 彼は答えた、「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って 洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。

 
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
闇から解放して下さる命の光

         ヨハネによる福音書9章1〜12節.2006.8/13

 この朝は、神の言である聖書にある「生まれつきの盲人の癒し」という奇跡から、救い主は、私共を人生の闇から解放して下さる事を学んで参ります。

 ヨハネによる福音書は、”光と闇”をテーマにしていますので、この”盲人の癒し”という奇跡を大切に記しました。

私が若い頃には、「人は何故、生きるのか?生きる目的は何か?」という事をよく話し合いました。やがて、時代は、「そんな事を考えるより単語の一つでも覚えた方がよい」とか、「明るく楽しければ良い」とか、「そんな事を考える暇があったら働きなさい」という風潮になっていきました。

 しかし、現代、挫折や病気が原因で自殺する中高年が急増しているのを見る時に、「人生の目的や意味」を考える事は、やはり大切な事だったと思わされています。日本人は宗教を軽んじますが、人生の意義や目的を考える時、宗教の意義が分かると思うのです。

 今朝の奇跡は、イエス様が生まれつきの盲人を見かけられた事から始まりました。私共の教会でも視力を失う危険を通られた方がおられます。幸い癒されましたが、後で、どんな絶望の淵におられたかお聞きしました。

 バルトという神学者は、この癒しの奇跡を次のように語りました。「イエスは一人の人間を見られました。この人間には見る為の光が欠けていました。闇の中にいる人間でした。この人には太陽もない。色もない。形もない。愛と友情が読み取れる筈の人間の眼差しも、この人には見えていない。癒される事もない。何の助けもない…そんな人が、この助け無き状況に生きているのです。

 それが生まれつき、目の見えない人という事です。私共は考えて見た事があるでしょうか?光を見る為の光が無いとはどういう事かを…。光に囲まれていながら、光が無いと言う事は、どんなに悲しく寂しく閉ざされている事でしょうか?」

 私は、この言葉を最初に読んだ時、余りにも絶望を強調している気がして抵抗を感じました。バルトの教会は大きな教会でしたから、盲人の方もおられたと思います。それらの人々が、この説教を聴いた時、生意気なようですが、傷口に塩を塗り込むような思いをされたのではないかと危惧したのです。

 しかし、この文を読み進む内、バルトはもっと大きな意図を持って語っていた事に気づきました。バルトは続けて「愛する友よ。光が欠けているのは私共ではないか?」と言っていたからです。「ああ、太陽も無い。色も形も無い世界にいるのは自分の事だ」と息を飲む思いの中気づきました。

 私はクリスチャンになって、気づけば25年が経ちました。主イエスを信じて罪赦され救われてから、”自分は神の光の中に生かされている”と信じて参りました…それは確かな事です。ですから、この闇の中に閉ざされている盲人の事を他人事のように聞いていたのです。

 しかしキリストは、ヨハネによる福音書16章33節で、「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と言われたのです。「クリスチャンにも闇がある。しかし、闇に打ち拉がれてはならない。既に世に勝っている私があなたと共にいるのだから」と言われたのです。

 ”クリスチャンの闇”というのは、”苦難の中で、共にいて下さる主イエスを見失い、闇を打ち破る、世の光である主を見上げる事が出来なくなる事”なのです…”キリストは、その闇がまだ私共の中に残っている”と言われるのです…ですから、”この奇跡は私共に対する奇跡でもある”のです。

 この盲人を見た弟子達は主イエスに尋ねました「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか?」と…。おそらく、この質問の意味が分からない方はおられないでしょう。日本人に馴染み深い”因果応報の考え方だから”です。旧約

 聖書のヨブ記でも、苦難の僕と呼ばれるヨブが、この世の悲劇を、全部、背負ったような状況に陥った時、見舞いに来た友達が、その余りの悲惨さに、慰めの言葉を忘れ、「罪を犯したのではないか?」と言い、ヨブの心の傷口に塩を塗り,ヨブを怒らせてしまったのでした。

 因果応報を語って人を傷つけるのは、私共にも言える事かも知れません…先日、NHKの大河ドラマ「功名が辻」を見ておりました。後に高知城主となる山内一豊が、長浜城主となって4ヶ月が経った頃、天正の大地震に見舞われ、長浜城が崩れ落ち、最愛の娘”よね”が死んでしまったのでした。

一豊は、「自分が大名になった幸せの代わりに、よね(娘)が死んだのかも?」と言ったのを聞いた時、一つの事を思い出しました。かつて織田信長の妹、市(いち)と結婚した、浅井長政が信長に反旗を翻した為、信長が浅井を討伐し、その後、山内一豊に、市と浅井長政の間の長男の満福丸の処刑を命じたのです。

 その事を思い出していた私は、ふと山内一豊が、命令を受けて万福丸を磔の刑にしたからではと思っていたのです。その時、はっと「こうした考え方こそが、因縁とか、ばち」だと気づきました…ドラマは、娘の死が”因果応報のせいでない”とメッセージしていました。山内一豊の妻、千代が亡き娘の為に仕立て直していた服を受け取りに街に出た時、街ゆく子供達を目で追っていてキリシタンに出会いました。

 そこで千代は、「キリシタンは人の死をただ悲しみは致しません。死は神の下に召される幸せでもあるのです」と言葉を聴いたのでした。そこで千代は、南蛮寺(教会)に行き、そこで明智光秀の娘、細川ガラシャに出会ったのでした。

 千代はガラシャに「どうして良いのか分からず南蛮寺に参りました。娘の事が諦めきれずにおりましたが、神のみもとで、よねが幸せに生きているならそれも良いかも」と言い…ガラシャは千代に、「私は、父、光秀を見捨てた、義理の父(細川の父)を、そして自分を切ろうとした家臣達を恨みません。うつしよの者を全て赦していきたい。赦せるように強くなりたい。千代殿も、姫君を亡くされた定めを、許せる日が参りますようお祈り致します」と言ったのです。

 私は聴きながら因果応報を考えた自分を恥じました。そして、”因果応報の考えが、染みこんでいる自分を思わされた”のです。

 此処を見ると、弟子達は、そうした因果応報について主に質問しているのです…この「誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか?」という質問を聞いている盲人の思いなど、考えもしなかったのでした。

 このように、因果応報の考え方が、どれ程、人々を傷つけ苦しめてきたか、はかり知れません。新興宗教などは、この因果応報を説いて、人々を不安に閉じこめ、食い物にしているものが多いのです。恐ろしい事です。

 因果応報ではありませんが、或る意味、人は生き方の実を刈り取ると言う報いを受けます。けれども、”人の力でどうにも出来ない事まで、因果応報のせいにするのは間違い”なのです。

また、この時まで、因果応報を克服し解放する人がいなかった事にも、そうした考えがはびこった原因があると思います。ここで、”イエス・キリストが、はじめて因果応報に傷つき悩んでいる人々を、そこから解放するお方として登場した”のでした。どのように、主イエスによって因果応報や闇から解放されるのかについては次週お話しいたします。

 ”イエス・キリストは、私共を闇から解放して下さるお方である証拠に、究極の闇に勝利して下さった”のでした…”キリストは、十字架で私共の罪を全て背負い、私共の身代わりに神に審かれ捨てられた”のです。その”十字架こそ究極の闇”でした。

 その中で主は、「我が神〜何故、私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれたのです。しかし、”その闇の最も深い所から、父なる神は、主イエスを引き出し、復活という究極の勝利をされた”のでした。それゆえ、”主イエスは、その勝利をもって、どんな闇の中にいる人をも、闇から引き出す事がお出来になる”のです。

 キリストは宣言されました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(栄光)が、この人に現れる為である」と…。”人生の意味と目的は、神の栄光を現す為にある”のです…キリストは、この盲人には、人生の意味と目的が与えられていると主イエスは言われたのです。”世の光なるキリストは、世の光として全存在をかけて、”因果応報や、全ての苦難に苦しむ者を、闇から光へと解放して下さる”のです。