「嵐の中の救い主」
ヨハネによる福音書6章15−21節
6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
6:16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
6:17 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっ ていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
6:18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
6:19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて 舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
6:20 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地 に着いた。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「嵐の中の救い主」
ヨハネによる福音書6章15−21節.2006.7/23
今朝は神の言である聖書から、”嵐の中、イエス・キリストが弟子達に近づき助けて下さった出来事を通して、人生の嵐の中で、共にいて下さる救い主”について聴いて参ります。先週は、五千人の給食の奇跡について聴きました。
主イエスの奇跡を見た人々は、この御方を王にしようと考え始めました。食料の心配が無くなると考えたからでしょうか?…15節に、そうした中、”主は一人で山に退かれて祈られた”事が記されています。
主は何を祈られていたのでしょうか?…おそらく、「弟子達や、群衆が、御自分を肉のパンでなく、霊(命)のパンを与える救い主として求める様にして下さい」と祈られていたのだと思います。
五千人の給食の奇跡がなされた記念すべき日も夕べを迎えました。弟子達は舟に乗り、ガリラヤ湖の向こう岸にあるカファルナウムに向けて漕ぎ出したのです。翌日の礼拝に備えての移動でした。
私は始め、どうして主イエスを山に残して、弟子達だけで舟を出したのか不思議でした。そこで同じ出来事を記しているマルコによる福音書を読みましたら、、そこに「主イエスが強いて舟に乗り込ませた」とありました。この「強いて」という言葉を読みながら、「主イエスは、主を、王に担ぎ出そうとする群衆に弟子達を巻き込ませまいとして強いて行かせたのだろう」と思ったのです。
ガリラヤ湖を5q程漕ぎ進み、残り1q程になった頃、辺りは闇に包まれて来ました。その時、突然、ガリラヤ湖名物の突風が吹いて来たのです。すり鉢状の地形がもたらす山路風のような局地風でした。見た事のある方はお分かりだと思いますが、夜の海は恐ろしいものです。まして嵐の夜の海ですから、弟子達が恐れるのは無理からぬ事でした。
しかし、”この恐れに支配されている姿が、弟子達が主イエスをどう見ていたかを浮き彫りにした”のです。もし弟子達が、主イエスを正しく理解し信頼していたなら、主に遣わされた地で嵐に遭おうとも、「神である救い主への信頼ゆえ」、平安は失われなかった筈だったからです。
先週の賛美大会は、とても祝福されました。今年、旭方教会に遣わされて来られた熊澤牧師の証しに胸を打たれました。熊澤牧師は、信徒時代、素晴らしいクリスチャン・ホームを築いておられました。今、中一の娘さんが2才の時、御主人が脳腫瘍で倒れられ、病室で御主人の手を握っていた時、賛美が口をついで出て来たのだそうです。
5年間の闘病を経て、今から5年前、御主人は天に召されました。臨終の時、見守っていた熊澤姉の口から頌栄が出てきて賛美する中、御主人が天に凱旋されていかれました。どうしても”受け入れる事が出来ない状況の下、主が賛美を与えられ、賛美の中にお住まいになる主が、臨在をもって先生を支えられた”のでした。
賛美は楽しい時だけのものではありません。”賛美は与えられるもの”なのです…賛美は人生の海の嵐の中でも、主に与えられるのです…そして,”賛美の中に住んでおられる主が、「私はあなたと共にいる」と、主への確信を与え、主はご臨在をによって支えて下さる”のです。
実は、この”嵐の夜の海は、私共の人生の海の嵐を暗示している”のです。弟子達が、そこで恐れに支配されていた時、湖上を歩いて来られた主が、暗闇の中から現れて、「私だ、恐れるな」と言われたように、”私共が苦難の波に翻弄されている時も、主は臨在をもって支えて下さる御方”なのです。
この時、弟子達の主イエスに対する信仰は、まだ成熟していませんでしたので、暗闇の嵐の中、近づいて来られた主を見た時、マルコ書の方には、弟子達は幽霊だと思って恐れたと記されているのです。そんな弟子達に向かって、主は「私だ。恐れる事はない」と言われたのでした。
それは”聞き慣れた主イエスの御声”でした。そして,その内容は、この時から1600年前の旧約聖書時代の出エジプトの時に、”神がモーセに燃え尽きる事の無い柴の中から語られた「私は有る」という言葉と同じもの”でした。
”そのお約束の御言葉ゆえ、神はモーセと共にいて、奴隷とされていたエジプトの地から、イスラエルの民を10の奇跡と紅海を二つに分ける御業をもって助け出し、荒野を40年間も導いて、天国のモデルであったカナンの地(パレスチナ)へと救われた”のでした。時は、この”出エジプトを記念する過越祭の時”だったのです。
”主イエスは、出エジプト時の神様の言に重ねて、「神である私があなたと共に有る。だから恐れる事はない」と言われた”のでした。それゆえ弟子達は平安を得たのです。
マルコ書では、「主イエスが舟に乗り込まれると、直ぐに嵐は静まり、舟は目指す地に到着した」と記されています。この事も、”出エジプトと重ね合わせている”のです…”出エジプトの時は、モーセは目的地に到着するまで民を導く事を許されず、カナンの地を目前にしながら天に召された”のでした。しかし
、”主イエスは目的地迄、弟子達を導かれたのです”…それは、”主イエスこそ、私共を天国と言う最終目的地までも導く事のお出来になる、真の救い主である事を示している”のです。
もう少し詳しく述べますと、出エジプトの時、モーセの後継者のヨシュアとカレブ以外の民は、40年間の荒野の旅の中で死にました。約束の地に入れたのは彼等の子孫だったのです。民が神の言に対して不信仰だったからでした。あの偉大なモーセが約束の地に入る事が許されなかったのも、”神の言に従いきれなかったゆえ”でした。
荒野で咽が渇いた民が神に呟いた時、神に執り成し祈ったモーセに神様が、「岩に命じて水を与えよ」と言われたのです。モーセはその時、指導者として威厳ある行動をしたかったのでしょうか?”岩を杖で2度叩くと言う余計な行動を付け足した”のでした。
それ自体は罪でないかも知れませんが、神の言に従いきらなかった事が問題なのです。神はその行為を厳しく責められました…”ここが主イエスとの違い”なのです…ハイデルベルクの信仰問答という教理書の問29にモーセと主イエスの違いが教理として整理されています。分かりやすく言いますと、「主イエスは、十字架の死に至る迄、完全に神に従い抜かれたゆえ、私共の罪を赦して、天国まで導いて下さる唯一人の救い主となって下さった」というものです。
この”主は、私共に対しても「私だ」と語って下さる”のです…先週はジャワ島で地震があり沢山の人々が津波で、家や命を失いました。また日本でも豪雨で、倒壊した家を報道で見ました。倒壊した家を想像して下さい。
その倒壊して行く真っ暗な部屋に子供が閉じこめられていて、「お父さんだよ。お母さんよ」と声が外から聞こえたら、その子はどんなに安心するでしょうか?…”「私だ」という言葉は、語った人と聴く人の関係を問い、浮き彫りにする言葉”なのです。
ヨハネ2:23-24に「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさった徴を見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」とあります…”主イエスを神として信じていない信者。主イエスに信用されない信者がいた”というのです…この言葉は、”「あなたは、主を、神である救い主として信じるか?」と問うもの”なのです。
”私共も、キリストの御声を聴く時、キリストへの信頼と信仰が問われている”のです。今,私共の教会でも、人生の海の嵐を通られている方がおられます。手術を受けられた方、深刻な病や問題を抱えておられる方々です。”そうした中で、「私だ。恐れる事はない」という主の御声を求めて頂きたい”のです。
”私共が人生の海の嵐の中で、主の御声を聴かれるなら、「ああ、キリストは私の罪さえ赦す事が出来る真の神。私を天国迄導いて下さる唯一の救い主」と信頼でき、主イエスはそこでそこで主の平安と救いに預かる事が出来る”からです。