助け主なる聖霊」 

ヨハネによる福音書14章16節
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
  
「助け主なる聖霊」

      ペンテコステ礼拝 ヨハネ14章16節、2006年6/4

 今朝は、紀元30年代に起こった”教会の誕生日”です。目に見えない霊なる神が天より降ってきて教会が誕生した日です。更に詳しく言いますと、”十字架に架かられ3日目に死より復活されて天に帰られたキリストが、天よりお送り下さったキリストの御霊が降って来た日”なのです。

 この聖霊なる神は、教会誕生の時に降ってきて、その後は開店休業ではなく、その後、ずぅーと、2千年間、教会を通じて働いて来ました。”教会の二千年の歴史は、聖霊によって造られてきた歴史”なのです。

 そして、”私共もまた、聖霊に生かされている”のです…礼拝前に、出産を控えたご婦人とお祈りしました。出産は、人生の中で指折りの大仕事です。教会の誕生も聖霊なる神の大仕事で目を見張る出来事がありました。しかし、出産の後、子供を育むという静かで深い仕事が待っているように、”聖霊なる神も、イエス・キリストの十字架で救われて神の民とされた人々の心に働いて下さり、育んで下さる”のです。

 十字架から二千年経った今も、”神から家出して生きて来た自分の罪を私共に示し、十字架による赦しと救いを経験させて下さり、また、そうして救われた者に対して、神が共にいて愛して下さっている事を教え、御言葉を心に示し、助けて導いて下さっている”のです。

 ヨハネによる福音書14〜16章までの間に、”「助け主」という言葉が4回”ほど出て参ります。この言葉には、他にも「慰め主」という意味もあります。法廷用語としては「弁護士」という意味で普通用いられます。”聖霊なる神は、法廷で罪に定められそうになった時、慰め、支えながら、弁護して助け出して下さる弁護士…そのような御方”だと言うのです。

 私共が”クリスチャン生涯を送って参ります時に、聖霊なる神が与えて下さる恵みと力、またその助けなしには歩み続ける事が出来ない事を経験”します…そして、”私共に、クリスチャンとして成長を与え、愛の実を結ばせ、天国まで導いて下さる”のです。

 実は、”聖霊なる神を、イエス様だけが、「助け主」「慰め主」として紹介している”のです…イエス・キリストは、神でありつつ人になられて、33年間この地上を歩まれました。その人生の中で、イエス様は、”孤独の中で助け主なる聖霊を経験された”からでした。

 主イエスは、人々に捨てられ続けました。また、愛する弟子からも裏切られました。最後は裏切られ見捨てられて十字架に売り渡されたのです。主イエス程、深い孤独を経験された御方はいないのです…その度、キリストは、一人退いて父なる神に祈られました。そして、”そこで聖霊なる神に支えられる経験をされた”のです。

 ”十字架に架かられた時もそうでした…聖霊なる神は、十字架に架けられていたイエス・キリストの内におられ、主の苦しみを共に経験され、私共の罪を身代わりに背負い、神の審きと呪いを共に受け、その中でキリストを支え慰めつつ、十字架を完成へと導かれた”のでした。それゆえ”キリストは、この聖霊なる神を「後から私が遣わす、聖霊なる神は、あなた達の助け主」と言われたのです。

 この”主イエスが与えて下さる聖霊”は、感覚的なものではありません。”聖霊は、どうする事も出来ない孤独や、失意、病の中にいる人の心にも臨んで下さる神の命の力”なのです。”2千年前のこの時、ペトロと弟子達に降った聖霊なる神は、ペトロと弟子達に力を与え、迫害の恐れを乗り越えて外に出て行って、5千人もの人々の前で、主イエスの救いを伝える力を与えられた”のでした。

 また、同時に、”聖霊なる神は、聖さと愛をもって心の中に御臨在下さり、御言葉をもって語り、助け導いて下さる御方=人格を持つ霊なる神”なのです。ですから、”救われた者は、大胆に、この聖霊の満たしを願うべき”なのです。”聖書は、「聖霊に満たして下さい」と祈り求める者に、必ず聖霊を与える”と約束しています。逆を言えば、”求めなければ、共いて下さる聖霊は遮られたまま”なのです。

 私は心配性の性格です。「牧師のくせに不信仰」と非難されたら返す言葉もありません。ストレスにより自律神経を患ったのは性格のゆえだと思います。この地、この教会に遣わされて来たゆえに回復して参りました。

 皆さんもお分かりだと思いますが、”人が自分の性格を変えるという事は至難の業”です。しかし、最近、そんな自分の中に1つの変化が生まれて来た事を見い出しています…心配や不安の中で「神様が何とかして下さる」「しょうがないなあ」と、自然に思っている自分がいる(思い詰めていない自分がいる)という発見です。

 決して楽天的な性格に変わった訳ではありません…ただ”聖霊の助けによって、信仰に立たせて頂く事は出来る”のです。過ぎし10年間は、病のゆえ自分の思いを超えて様々なものを失いました。この辛さは経験された人にしか分からないかも知れません。良く、「挫折する中で、失った中で見えて来る物がある」と言われます。そうかも知れませんが、神の御心さえ分からなくなる苦しみを通る時、そんな一言で片付けられる程生やさしいものではないと思うのです。

 「私はこれからどうしたら良いんですか?」と必死に神様の足にしがみつく思いで祈る中、神の沈黙を経験するのは辛い事です…しかし、神は、時至った時、必ず、共にいて下さった主を教えて下さるのです。多くの場合、人はそこ迄耐えきれず、神を見上げる信仰の眼差しを落としてしまっているのです。
 私は、今は、「神は確かに、自分と共にいて助けて下さった。確かに自分は思う以上に、多くの物を失った。何度も、もう駄目だと思う暗澹たる思いに支配された。けれども、今こんなに祝福されているではないか。神は確かに、人間の思いや計画を越えて、共にいて働いて下さる御方」と…また、「御言葉に聴いて、主につながっている限り、もう駄目という事は決してない」とも教えられたのです。

 ”「もう駄目」という所にいるクリスチャンを、今も、御言葉を通して、支え、助け、生かして下さるのが聖霊なる神”なのです。

 更に、”聖書には、「従う者に賜う聖霊」”とも書いてあります…私共が”聖霊に満たされる為には、聖霊を求めるだけでなく、聖霊が心に語って下さった御言葉に従う事も大切”なのです…”聖霊は今も、力だけでなく人格的な御方だから”です。

 ですから、御言葉に対して「神よ私は、今、此処にいます。神よ、私にお語り下さい」と”人格的に応答する事が、今、聖霊と交わる道”なのです。

 ”生まれたての教会の力の源は、聖霊が語られた御言葉に聴き従う事”でした。そして、”聖霊の命の力に預かって、教会は二千年間歩んできた”のです…”私共の教会の力の源も同じ”なのです。誰かの力、奉仕の力ではありません。

 ”御言葉に聴いて聖霊の命の力に預かる事”なのです。その時、助けを受け、押し出され、私共の人生は変えられて行くのです。教会もキリストの躰として成長して行く”のです…ですから私共も、”聖霊を求め、聖霊によって御言葉に聴き従い、聖霊の助けの中を歩んで参りたい”と思います。