「主イエスの招きと執り成しの祈り」
マルコによる福音書1章16−20節
1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄 弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ た。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「主イエスの招きと執り成しの祈り」
マルコによる福音書1章16−20節.2006年 6/25
マルコ1章の16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時」とあります…絵になりそうなガリラヤ湖畔を歩いておられるイエス様のお姿が浮かびます.
そこで、網を打っていたシモンとシモンの兄弟アンデレを”ご覧になられた”イエス様が「私について来なさい」と言われたのでした。この後、 ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネをも、”主はご覧になって御声をかけられた”のでした。
また、この「ご覧になられた」という言葉には、ひょいと見たという事ではなくて、”じっと見る、鋭く見抜くという意味がある”のです。
漁師やベテランの釣り人は、見えない筈の水面下を見ます。潮の流れ、海底の地形を読むのです。この日、”主イエスは、神の眼をもった漁師として、表面から見えない、主の弟子として変えられて行く4人の姿を見抜いておられた”のでした。
この”主の召し(呼びかけ)に応えた者の人生は、今迄の生活の延長ではなくなる”のです…”主イエスの招きに応答した時、人は人生の転機(今迄の生活との断絶)を経験するから”です…ですから,”土居教会員になるという事は、四国中央市という地にある土居キリスト教会で、主イエスの弟子になった”という事なのです。
しかし、「自分が主イエスに弟子として選ばれた」と聞きますと、「果たして自分は、主の弟子として相応しい者だろうか?」と思われる方がおられるかも知れません…しかし、聖書には、「神は敢えて無きに等しい者を選ばれる」とあるのです。
反対に、富める青年の物語にあるように、「自分こそ、主イエスに選ばれる資格のある者だ」と思う者の方が、”主の弟子から脱落する危険がある”のです。
主イエスが、「あなたを漁師から人間をとる漁師に造り変える」と言われたのは、「あなたに、新しい生き方、新しい使命を与える」と言う事です。と同時に、”あなたが、自分に絶望している所、あなたの弱い所を私は見抜いている。私は、そこから、あなたをもぎとり、あなたを新しい所に移す”と言われるのです。
その”新しい所”と言うのは、”「神の憐れみの中に、恵みの中に生きる世界”なのです。そこにに、「あなたを引き出す」という約束の言葉だった”のでした。
しかし、人は主に従がおうとする時、今、自分が置かれている状況を考えます…家の宗教の事、家族の反対、職場や社会から受ける迫害の事などです。此処で主に、「私について来なさい」と言われた時もそうだったのです。聖書には、「ヤコブと兄弟ヨハネの二人が、主に従った時に、父と雇い人達を舟に残して、主イエスに従って行った」と記してあります。
息子に去られた父や、雇い人達は、生活に困窮した事を語っているのです。そんな彼等にとって、ヤコブや兄弟ヨハネ達が、急に主に従った行為は軽率な行動に映ったに違いありません。
しかし、ヨハネによる福音書の1章を見ると、シモンとアンデレや、ヤコブと兄弟ヨハネは、何度か主イエスにお会いし、求道していた事が分かります…”彼等は熟慮の末、主イエスの弟子になる決心をするという応答をしていた”のでした。
しかし、聖書はサラッとそこを流して記すのです…それには理由があるのです。”人の救いは人間の判断や考えや努力によるものではなく、全く一方的な、神の選び、恵みによって選ばれる事による”からです…”人間の側には自分の救いの為に、介入する隙間はない”のです…”ただ神が備えて下さった、主イエスの十字架と復活という救いの御業を自分の為だったと信ずる応答をするだけ”なのです。
私共は、主イエスに「ついて来い」と御声をかけていただいたならば、”主イエスが自分に目を留めて、自分を見抜いて下さっている事を信じて、御声に全てを委ねてついて行けば良い”のです…”そうする者に対し、主は責任をとって下さる”のです。
確かに、此処に登場する”4人の弟子達は生活を捨てて主イエスに従い”ました…でも、主の弟子としての献身と従順はまだまだ未熟なものでした。この弟子達は、”十字架を理解出来ず、主が十字架に架けられた時、主を捨てて逃げ出した”のでした。
勿論、”イエス様は、初めから、そんな彼等の未熟さや弱さを見抜いておられ”ました…しかし”主が、更に見抜いておられたのは、十字架の後に聖霊を受けて、主の弟子と変えられた姿だった”のです。
それが、十字架を目前に控えた主と弟子ペトロとの会話にも現れています…ペトロは、十字架を控えた主に、何とか愛する思いを伝えようとして「死んでも従って行きます」と言ったのです。しかし主は、そんなペトロに、「あなたは今日、鶏が鳴く前に3度知らないと言うだろう」。更に、「私はあなたの為に信仰が無くならないように祈った…だから、立ち直ったら兄弟達を力づけてやりなさい」と言われたのでした。
ペトロには、この主のお言葉は「私は、あなたを信頼していない」と聞こえただろうと思います。胸を突き刺され、悲しみに覆われたに違いありません。私は、自分がそこにいて、ペトロと同じ事を考え、同じ言葉を言ったなら、主イエスに同じお言葉を語られただろうと思います。
はたして”数時間後、ペトロは、主が言われた通り、主を裏切り挫折に打ちのめされていた”のでした。ペトロが鶏が鳴く前、3度、イエス様を知らないと言った時、主イエスは振り向いて、ペトロ
を見つめました。それは悲しい眼だったでしょうか?私には、「私は、そんなあなたの為に祈ったのだよと訴える眼差しだった」ように思えるのです。
ペトロは、そこで主イエスの祈りを思い出し、「こんな自分を主イエスは見抜いておられた。そして祈って下さっていたのだ」と悟り、その主イエスの祈りゆえに再起出来た”のでした…そして、”この後、ペトロは、誕生する教会のリーダーと変えられて行った”のです。
主の弟子達が、主イエスが見抜かれた通りに変えられて行ったのは、復活された主が、昇天された後、弟子達が10日間祈っていた所に聖霊の注ぎを受けた時でした。
その10日間、弟子達は何を祈っておられたのでしょうか?…ある時、説教で、弟子達は悔い改めの祈りをしていたとお聴きしました。誰かが悔い改めの祈りをした時、自分の罪も聖霊に示され、ドミノ倒しのように次々に祈り出したのです。皆が悔い改め尽くした10日後、聖霊がそこに注いだのでした。
私共も、自分の弱さや愚かさを知らされて絶望した時、”自分の為にも祈って下さっている、この背後の主イエスの祈りを知る事が出来る”のです。私共が、主の弟子として歩む事が出来るのは、”ひとえに、この背後の主の執り成し祈りゆえ”なのです。
私自身、病にかかり喪失感、挫折感の中にいた時、先輩の牧師先生が、この「私はあなたの為に信仰が無くならないように祈った…だから、立ち直ったら兄弟達を力づけてやりなさい」の御言葉を下さったのです…そこで深い慰めを受けた経験を忘れる事が出来ません。
私共も、”自分を知らされた時、主イエスの背後の祈りを信じましょう…主は、砕かれた魂に、聖霊を注がれるから”です。そして、”その人は聖霊に充たされる”のです。”そうなる私共を、主は見抜き信頼して下さっている”のです。
ですから私共がなすべき事は、”自分を見る事でなく、自分を見抜き召して下さった主イエスと、主の真実な執り成しの祈りを見つめる事”なのです…そうして歩む時、私共は、”人間をとる漁師”へと造り変えられて行くのです。