「福音を聴く者の責任」
ルカによる福音書8章4〜15節
8:4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用 いてお話しになった。
8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人 に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
8:6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
8:7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
8:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこの ように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
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◆「種を蒔く人」のたとえの説明
8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。
8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪 魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。
8:13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらく は信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。
8:14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や 快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。
8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を 結ぶ人たちである。」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「福音を聴く者の責任」
ルカ8:4〜15(4〜8節、11〜15節).2006.6/18
今朝は,種蒔く人の譬えの物語です。8節の主イエスの御言葉、「聴く耳のある者は聴きなさい」から、”福音を聴く者の責任”について共に学んで参ります。ここで主は「種まきの譬え」を語られました。この譬えは,当時の人々には身近な話でした。
私共は言葉で会話します…私は、説教する立場ですので、何時も言葉を相手に伝える難しさを感じています。
人は会話で理解し合えると思っているかも知れませんが、90%以上はボディランゲージ、つまり表情や目、語調等で理解し合っているのだそうです…言葉が相手に気持ちを伝える力は10%足らずとも言われます。その証拠に、共感できない人の言葉で、自分の考え方が変わる事は難しいという経験は皆さんお持ちだと思います。
また、しばしば”人間よりペットとの方が心が通じ合える”という言葉を耳にします。そこにも人間同士が理解し合う手段としての言葉の限界というものを感じます。
主イエスも、3年間、寝食を共にしていた弟子達に、「自分こそ、人の罪を赦して、心に神の国をもたらし、永遠の命を与える救い主である」と語り続けられました。けれども”弟子達には、そのイエス様の言葉は伝わっていなかった”のです。ですから、この「聴く耳のある者は聴きなさい」というのは、”主イエスの心の叫びだった”のでした。
パレスチナ地方では,乾期から雨期に入る前の一ヶ月間は、”先の雨”と言われる雨が降り地面を柔らかにする時期で、種蒔きの季節だそうです。蒔かれた種は”四つの地”に落ちます。
「道端」に落ちた種は”鳥に食べられて”しまい、
「石地」に落ちた種は”日が昇ると枯れて”しまいました。
また、「いばら」の中に落ちた種は”茨に塞がれて実を稔らせる事はありません”でした。
しかし、「良い地」に落ちた種は、”百倍の実を結んだ”と言うのです…今朝は,この”種蒔きの譬えから、福音を聴く者の責任について”学んで参ります。
さて,この「種まきをする人」とは誰の事でしょうか?…それは”イエス様”です。そして,蒔かれた”種”が”福音”なのです…また”地”は,”御言を聴く人の心”の事です。
主は”御言を聴いた人の反応は4つに分かれる”と言われました…「道端に落ちた種」は,”人に踏みつけられ鳥に食べられる=御言を聞いてもサタンに妨げられて信じない人の事”です。
「石地に落ちた種」は、”すぐ喜んで神を受け入れるけれども、困難や迫害が起こると根が無いので,命の水であるキリストから、霊の命を受け入れる事が出来ない人”の事です。
イスラエルの地面は石灰岩の上に、土が薄く覆っている所が多くあり、鍬を入れない限り、そうでない場所との見分けが付かない”と言われます。その地に落ちた種は、”芽は出るが水気が無いので枯れる”のです=”すぐ喜んで神を受け入れるけれども、困難や迫害が起こると根が無いので,霊の命を受ける事が出来ない人”の事です。
「いばらに落ちた種」は,芽を出しますが成長する事が出来ません。この事は、”神様は信じるけれども、思い患いや、感情、富や快楽に心奪われて、愛の実を結ぶ事の出来ない人の事”です。しかし”「良い地」に蒔かれた種は、”百倍の実を結ぶ人”を指しているのです。
これらの譬えは、その「福音の聴き方」について語られたものでした。”福音という種には、人を救う命の力が宿って”おります。そして、”その福音の種が芽を出して実を結ぶかどうかは、種が蒔かれた地である私共の心が、どう御言葉に聴くかによる”のです。ですから、ここでは、”福音を聴く者の責任が問われている”のです。
鉢植えにして4ヶ月育てたライムギの根の総延長は、根の回りに生えるヒゲのような毛根も含めると11,200km、およそ東京−ワシントン間の距離になるそうです。一本のライ麦でさえも、地面の下で一生懸命、養分や水分を吸収して生きているのです。クリスチャンも同じです。クリスチャンとして、神の命に生かされる為には、真剣に神の言を聴いて行く事が大切なのです…そうでないと、命の水を得る事が出来ないからです。
では、どうしたら百倍の実を結ぶ事が出来るのでしょうか?…この”種蒔きの譬え”は、マタイ,マルコ,ルカによる福音書に記されています…しかし、ルカによる福音書だけには、”私共が良い地になる為の秘訣の言葉が記されている”のです。それがルカ8章15節です…「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」…ここにだけ「忍耐して」という御言葉があるのです。
この「忍耐して実を結ぶ」という御言葉が良い地になる秘訣なのです。「神の御言葉が与えられたら、人は手を出さず、じっと神が働かれる時まで待つ」という事なのです…”「神の言を聴き、神の言が約束した事が成就する時を、信じ待つ人が、良い地である」とキリストは言われる”のです。
これは、実はとても難しい事で、多くの失敗が思い浮かびます。正に自分自身探られる言葉です。現代においては、”「耐える」という事は、消極的で古い生き方と思われる”かも知れません…ですから、弱々しく消極的な戦いと感じる方がおられるかも知れません。
しかし、”神と共に生きる者は、神を待地望む事において、そこがサタンとの戦いである事を知る”のです。神が働かれる時、言うべき時も場も備えられる事を必ず体験できるのです…その時に備えて祈りつつ、塩で味付けられた言葉を備えているのがクリスチャンの姿なのです。
これは、私自身をはじめ、多くのクリスチャンにも言える問題だと思います。ともすると、「心に思った事を直ぐ口にし」、また「直ぐ思った通りに動いてしまう」のです。確かに、自分の考えが正しいと確信する時、人は神と人のする事を見守る事が出来なくなりやすいのです。
この9ヶ月間、「御言葉に聴いて生きる」という事を説教で語り続けて参りました…その事が”神の御業を見る道だから”です。私自身、1日に読む章を増やして励んで参りました。そうしますと、確かに生ける神と共に歩んでいる事を実感する事が多くありました。
と同時に悪魔の抵抗にも気づかされました。たとえば、聖書通読が自分の中でノルマになり、量を読む事に意識が行きすぎて、「僕は聴きます。主よお語り下さい」という姿勢が疎かになる時があった事でした。しかし、ハードルを低くしますと、今度は御言葉に聴く姿勢そのものが崩れてしまう事も感じたのです。
このように聖書通読を妨げようとサタンが働くのは、”クリスチャンが、神の民として神と共に歩む生命線が、御言葉に聴く事であるとサタンが知っているから”なのです。主イエスは、この朝、「聴く耳ある者は聴くが良い」と語って下さいました…そして「あなたは忍耐して神の言が成就するのを待ち望む良い地となりなさい」と言われたのです。
私共は、”共に励まし合い、祈り合って、神の働かれる時を忍んで待ち望み、神様の御業を体験する者達となりたい”と思います…そうなる時、”私共の人生と、私共の教会は、百倍の実を結ぶ良い地となる”のです。