「信仰の継承の道」
2テモテ3章10〜17節
3:10 しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、
3:11 アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといま せんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い 出してくださったのです。
3:12 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。
3:13 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。
3:14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれ から学んだかを知っており、
3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリ スト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をす るうえに有益です。
3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行う事ができるように、十分に整えられ るのです。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「信仰の継承の道」
2テモテ3章10〜17節、2006.5/14
2テモテは、パウロが書いた最後の手紙と言われます。老いて殉教を前にした使徒パウロが若い伝道者テモテに、”信仰と伝道を託した書”です。今日は礼拝後に総会の時を持ちます。今、土居教会は転期を通過しています。次の世代への信仰継承が問われているのです。それゆえ、この朝は、”パウロがテモテに対し、信仰継承の為に、何を語ったのか”を共に注目して聴いて参ります。
先々週迄、”御言葉(神の言)は悪魔を倒す神の武具である事”を学んで参りました。今週は、”神の言である聖書に聴く大切さ”を学んで参ります。この時パウロは、ローマの獄中にいたのです。”パウロは、「イエスは主」という教えを気にいらないローマ皇帝の手にかかって処刑され、イエス様の所に帰る日が近づいている事を知っていた”ようです。
そうした獄中で、パウロが出来た事は、人生を振り返る事でした。生い立ち。イエス様との出会い。そして救われてから、どんな風に変えられたか、救いをもたらす福音を伝えてきたか…そして、ずっと共にいて下さった主を思っていたのです。
また多くの人々の事をも思い出していたに違いありません…主イエスを信じた後、主イエスを捨てた人々の事を思い出して心を痛め、反対に、パウロの為に祈ってくれている仲間の事を思い起こし、「私は一人じゃない」と慰められ、励まされた事と思います。私も、祈りの援護が欲しい時、祈って下さっている人の事を思い励まされ慰められているからです。”祈り合う事において、教会は共同体とされている事を体験する”のです。
この時パウロは、テモテの事を思っていました…テモテと初めて会った頃、彼はまだ少年でした。テモテはクリスチャンホームの出身で、小さい頃から御言葉を聞いて信じて育ったので、彼の心の中には”神の言が充満していた”のです。
パウロはそんなテモテが好きで、何度も伝道旅行に連れて行きました。そしてエフェソの教会を任せるようになったのでした。パウロは、「テモテ、私はあなたの為にお祈りしている。これから迫害の時代が始まる。エフェソの教会にとって厳しい時代になる。でもテモテ臆病になってはいけない。迫害の中、主イエスは私を尽く救って下さった。私は御言葉は真実な神の言、主イエスの御声である事を経験して来た。だから、あなたも幼い頃から親しんできた聖書から離れてはいけない。この神の言には、人をキリストへの信仰に導き救う力があるからです」と書いたのです。
どうして、人間の手で書かれた聖書が神の言、足るのかについて、小林和夫師が、このように教えてくださいました。分かりやすく言い直します…「聖書は、神が人間を機械の様に記させたのでなく、聖霊が書き手の人間の個性と人格を通して、力強く神の意志を記録させた書である。また神の意志だけでなく、細かな言葉の選択に於いても、また聖書全巻に於いて、神の意志を十分に言い表す事に於いても、聖霊に導かれ書かれた書物である」。
それゆえ”聖書が、神の言として信ずる者に教えを与え、戒め、正しくし、神様に喜ばれる道へと導く”のです…更に、”あなたを助けて完全に整え、良い事ができる者と造り変える書となる”のです。教団が発行している「聖書の光」という日曜学校の教案誌に、若者の性に対するクリスチャンの捉え方、指導についての特集記事がありました。記述者は、教会員であり、中学校の相談委員をして来られた姉妹です。一部を御紹介します。
「結婚するまで性交渉をしてはならない」とは、主が人類に与えて下さったルールです。最初から終局を御存知の神様ですから、主がいけないと言われた事は、守る事が人間にとって一番幸いな事なのです。
私はPTAの役員を十年しているので、未信者のお母さんとの付き合いがあります。ある集会の席で、お酒に酔ったお母さんが、「みんなで初体験告白!」と始めてしまったのです。困ったなと思いつつ、「神を知らない人々はどんな人生を歩んでいるのかな?」と思いつつ聞きながら、一つのルールがある事に気づいたのです。神を知らない未信者でも、神のルールに従っている人は、実に麗しい結婚生活を築いているという事です。お互いを高め合い、明るく前向きで幸福感が漂っています。
しかし、欲望に任せた関係の場合、壊れた時の不毛感は深いのです。心と身体がその経験を記憶して忘れられないものとなっているからです。だから性交渉の相手は、裏切らない約束の出来る一人の人で無ければならないのです…。
私もそう思います。更に言うなら、純潔や貞操を守る事は、夫婦の信頼感と一体感をも生むのです。こうして見ますと、”神が喜ばれる道というのは、御言葉が教える道であり、私共を幸福に導く真理”なのです…それゆえ”聖書の教えは、時代遅れの古くさいものではない”のです。”救われた人は、神の言の命の力によって、整えられ、神が自分の人生に立てておられる御計画に間に合う働き人と変えられる”のです。
日本の戦国時代の戦いで有名なものの1つに、”桶狭間の戦い”というものがあります…今川義元率いる2万5千の軍勢が、桶狭間で休息している所を、戦国武将として駆け出しだった織田信長が、3千の少数兵で奇襲して大金星をあげた戦いです。
士師記の7章にも似た物語があります。ギデオンが、イナゴのような大軍勢に対して、手勢3万2千人で戦おうとしていた時、主が「あなたと共にいる兵は余りに多い」と言われ、多勢の敵を前にしてひるんでいた2万2千人の味方を帰らせたのです。神は更に、「兵はまだ多い」と言われて、”残兵1万人に水を飲ませた”のでした。
その時、9千7百人は犬が水を舐めるように飲んだのですが、”3百人だけは、敵に注意しながら膝をついて手で水をすくって飲んだ”のでした。”神はその3百人だけを選ばれて、数え切れない敵と戦わせた”というお話しです。
「あなたと共にいる民は余りに多い」…厳しい言葉です。ギデオンは、どんな思いで従ったのでしょう?…去りゆく兵士を見つめながら、ギデオンと3百人の兵士達は、”神しか頼るべきものが残っていないと痛感していた”でしょう。
この事が語っている事は、”神の戦いは、数や力ではなく、信仰が問われる”という事なのです…その信仰は、”神の言に聴き、神の言を信じ、神の言に従う信仰”です!それは、試練の中のクリスチャン、また教会にも言える事です。
14節に「けれどもあなたは、学んで確信した所に留っていなさい」とあります…これが、”パウロが、テモテに信仰を継承する為に語った遺言でもあった”のです。
ヨブ記に、”試練や災いは、「悪魔が信仰を試してみましょう」と神にかけ合い許されて挑んできた悪魔の業”と書かれています。突き詰めて考えますと、”試練や災いは、悪魔の業であるけれど、奥底には神の挑戦がある”という事です…それゆえ、”試練や災いの意味は、私共が思うより、深刻で厳しいもの”なのです。”神に問われている場(神の挑戦)だから”です。
では、”神は私共の信仰の何を、試練や災いで試そうと挑戦しておられるのでしょうか?…それは、試練の中で、主イエスを主として、主の御声に聴いて拠り頼み従う事を見ておられる、神の挑戦”なのです。”パウロが、ここでテモテに継承しようとしていた事も、御言葉を主の御声として聴き従う事だった”のでした。
午後の教会総会でも、”信仰継承”について話し合われると思います。そして、それは、”この共同体が、御言葉に聴く群となる事を願い、その為に祈りあう時となる”と信じ願っています…それこそが、”私共の家庭や教会に於いて、信仰を継承する道”だからです。